日本最北端の町・稚内は、国境の町でもある。もちろん国境線を挟んで直接他国と接しているわけではない。ただ、宗谷海峡の向こうには、ロシア・サハリンがある。稚内の空が澄み渡る時期は秋口のほんのわずかな間だが、その頃には海の先にくっきりとサハリンが見える。稚内の町を歩いても、そこかしこにロシア語の案内標識が見られ、そこからも国境の町であることが感じられる。

 といっても、稚内がいまのように国境の町になったのは戦後になってからだ。それ以前、サハリンは樺太と呼ばれ、その南半分は日本の領土であった。

 江戸時代末期、1855年に日露和親条約が結ばれたときには樺太を巡る国境線は決定されず、1867年からは樺太全土が日露両国による雑居地となる。わかりやすくいえば、日本人もロシア人もどちらも暮らす、両国の共同統治のバリエーションのひとつといっていい。

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 そして1875年には樺太・千島交換条約が結ばれ、樺太はいったん全島がまとめてロシア領になった。

 

ロシア領だった「樺太」が日本になったのは…

 それから30年ばかりは樺太はロシア領、つまり稚内は国境の町となっていた。状況が変わったのは日露戦争だ。戦後のポーツマス条約によって、樺太の北緯50度以南が日本領になり、以後日本は南樺太に樺太庁を置いて、樺太の統治を進めていくことになる。

 1922年には稚内に鉄道が到達するのだが、実は南樺太の鉄道はそれよりも早く開かれた。たとえば、南樺太の玄関口であった大泊(現在のコルサコフ)と最大都市の豊原(現在のユジノサハリンスク)の間の鉄道(樺太東線)は1906年に完成している。この樺太東線を中心に新規開業や延伸を繰り返し、戦前には樺太庁鉄道(のち樺太鉄道局)の路線は南樺太全域、682.6kmにまで広がっている。

 そんな新天地・南樺太と本土の連絡は、もちろん航路しかない。最初は小樽と大泊を結ぶ航路がほとんどだったが、稚内まで線路が延びたことで、1923年に稚泊連絡船が開業する。青函連絡船などと同じタイプの、すなわち鉄道連絡船。稚内まで鉄道でやってきて、そのまま船に乗り継いで樺太に渡り、大泊からはまた樺太東線に乗り継ぐ……というルートが確立されたわけだ。