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 樺太において、ソ連との停戦協定は8月22日になってようやく締結される。それをもって、ソ連軍は輸送禁止を命令する。つまり、停戦協定以後は稚泊連絡船をはじめとする緊急疎開輸送も禁止、というわけだ。ただ、ソ連の「24日18時までは定期船の航行だけは認める」という言葉を信じ、23日の夜10時に宗谷丸ほか3隻が最後の輸送を行っている。宗谷丸の最後の航海には定員の4倍以上、3600人もの避難民が乗った。

 大泊の桟橋には最後の船に乗りきれなかった人々があふれ、涙を流して「早く迎えに来てくれ」と叫んだという。この最後の宗谷丸が稚内について、樺太からの引き揚げ緊急疎開輸送は幕を閉じる。そして同時に稚泊連絡船も1923年以来の歴史に終止符を打ったのである。

「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」

冬の大泊(『日本国有鉄道百年史』より)

 この緊急疎開輸送で南樺太から避難した人は、大泊から約6万7600人、本斗など他の港から避難した人を含めれば、10万人近くが引き揚げたとされる。ただ、それでも樺太には30万人近くが取り残された。いったんは引き揚げたものの、縁もゆかりもなく、満足な食事もない北海道で暮らすよりはとまた樺太へと密航していった人もいたという。そうした人々はしばらくソ連の行政下に置かれたのち、1946年12月から本格的にはじまった戦後の引き揚げを待つことになった。

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 また、緊急疎開輸送の最中では、稚内を経由して小樽方面に航行中の小笠原丸など3隻がソ連の潜水艦の攻撃を受けて留萌沖で沈没し、1700人以上が命を落とした。戦場となった樺太では、9人の女性電話交換手が避難せずに職場に留まり、最後は青酸カリを飲んで自決するという悲劇もあった(真岡郵便電信局事件)。そのほかにも、語られないような悲劇は枚挙にいとまがないだろう。

 稚内市街地の西の山。稚内公園として整備されているその山の中腹には、氷雪の門と名付けられた碑が置かれている。1963年、稚内の樺太関係者によって建立されたもので、樺太でなくなった日本人のための慰霊碑である。

 

 中央には女性の像があり、それを挟むように両側には高さ8mの門が立つ。その間の遠く向こうには、南樺太、サハリンのしまなみがうっすらと浮かぶ。傍らには、真岡郵便電信局事件で命を落とした9人の女性の碑もある。

 彼女たちが最後に残したとされる、「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」の言葉が刻まれている。最北端の町・稚内や、そこに通じる鉄道は、こうした歴史を胸に含み、いまも歴史を刻んでいるのである。

 

写真=鼠入昌史