ほうほうのていで北海道・稚内にたどり着いても、そこから先のあてはない
それでも列車に乗りきれず、徒歩や馬車、トラックで港を目指す人も列を成す。しかし、大泊をはじめとする船が出る港もそれほどの避難民を捌ききることができず、船を待つ人々で桟橋は埋め尽くされ、周辺の倉庫や空き家で空腹に耐えながら夜を明かす。
ようやく船に乗れた人も、中には青酸カリを渡されていざというときにはそれを飲むように指示されたケースもあったようだ。
稚泊連絡船宗谷丸をはじめとする船舶も、途中からは定員を遥かに上回る避難民を乗せている。もちろん客室には詰め込むだけ詰め込み、海軍の軍用船などにはマストの周りに至るまで鈴なりに。
万が一のことがあっても樺太庁が責任を持つと、各船の船長を説得したことで実現した定員オーバー輸送だったというが、過積載で沈没してしまえば責任もへったくれもない。それに、宗谷海峡の航海は敵潜水艦からの攻撃の危険がある。まさしく苛烈を極める、決死の疎開輸送であった。
ほうほうのていで北海道・稚内にたどり着いても、そこから先のあてはない。稚内の人々は旗を振って暖かく出迎え、食事などの世話もしたという。かつて稚内から新天地を目指して海を渡った人々が、命がけで逃げてくる。稚内の街中にも、たくさんの避難民が滞留して身動きの取れないありさまになった。稚内に上陸した人は、17日には5500人、18日には1万3000人に及んでいる。
稚内にたどり着いた人々も、鉄道で運ばれた。どの町に向かうのかを聞く余裕などなく、とにかく列車に押し込んでは旭川・札幌方面に向けてひた走る。旭川で降ろすだけ降ろし、さらに札幌方面に向かいたい人が多ければそのまま札幌、札幌に着いても函館方面の人が多ければそのまま走る……という、その場の判断で大量の避難民を運んでいった。臨機応変といえば聞こえはいいが、とにかく誰もが必死だったのだろう。
出港した最後の船。乗りきれなかった人々があふれ、涙を流して…
反対に、稚内方面に向かう列車は緊急物資以外は乗せないことでスピードを上げ、一刻も早い稚内への到着を目指した。稚内からの列車も出発時間は決めず。避難民がいっぱいに乗ったらすぐに発車させるという、規則正しい鉄道の世界ではおよそ考えられない輸送態勢。こちらでも樺太同様に、客車ばかりでなく貨車にも人を詰め込んだという。かくのごとく、ほとんど避難民のためだけに最北端の列車は走り続けたのだ。
すでにこのときには戦争は終わっていた。終戦直前に参戦したソ連軍との戦闘は散発的に続いており、樺太もそうした土地のひとつだった。8月15日を過ぎて、戦場になったかつての夢の新天地から逃げる人々と、その土地をまだ守ろうとする人々の、最後の戦いである。