連絡船を阻んだ冬季の流氷
稚泊連絡船開設当初は1隻の船を用い、夏は2日に1往復、冬は1か月に6往復というダイヤが組まれていた。
ただ、需要の増加や冬季の流氷への対応が求められるようになり、最終的には流氷を砕きながら進む砕氷船を導入。宗谷丸・亜庭丸の2隻体制で毎日運航も実現させている。稚内から大泊までの所要時間は約8時間。稚内港や大泊港の整備も進み、1923年には年間約7万人だった旅客数も1929年には約14万人にまで増えている。
また、日本領になってすぐの1906年には1万2000人ほどだった南樺太の人口は、1944年には40万人を超えた。石炭産業や林業が南樺太の主たる産業で、夢を抱いて新天地を目指す人々が絶えることなく稚泊連絡船で海を渡った時代だったのである。ちなみに、かの宮沢賢治も稚泊連絡船就航直後の1923年夏に南樺太を訪れている。
1945年、“平和の島”に起こったこと
1941年には太平洋戦争がはじまるが、それからもしばらくは稚泊連絡船や南樺太に大きな変化はなかった。南樺太はソ連と国境を接しているものの、日ソ中立条約があったために国境線を越えてソ連軍が侵攻してくることはないというのが大きかったのだろう。
それでも、1942年秋以降、米軍がアリューシャン列島奪還作戦を進めるようになると、宗谷海峡付近にも米軍の潜水艦がたびたび現れるようになる。連絡船が運航休止を余儀なくされたこともいくどとなくあったという。1943年のアッツ島玉砕、キスカ島撤退などと戦局が展開すると米潜水艦の出没頻度も高まり、同年夏からは稚泊連絡船の運航時刻が軍事機密扱いになっている。
このように危機感の高まりはあったものの、1945年に入っても南樺太には空襲もなく、いわば本土とはまったく違う“平和の島”としての印象を抱く人も少なくなかったようだ。それは何より日ソ中立条約という安全弁があったからだ。1945年4月にはソ連によって日ソ中立条約が破棄されるが、日本側はソ連が参戦するとは思ってもおらず、樺太における防衛体制も対アメリカ軍が中心になっていた。
しかし、さすがに1945年の夏が近づくと状況は厳しくなってくる。米軍の本土上陸の公算も高まり、南樺太でも米軍上陸への備えが求められるようになる。また、制海権を喪失したことで米艦艇・潜水艦の宗谷海峡への出没頻度も増し、稚泊連絡船もたびたび沈没の危険にさらされる。
1945年7月18日、大泊から稚内に向けて航行中の稚泊連絡船宗谷丸が敵潜水艦の魚雷攻撃に遭い、8本もの魚雷を発射されるもジグザク航行でかろうじてかわした、というできごともあった。そのとき、宗谷丸には約600人の乗客が乗っていたという。
ただ、いずれにしてもたびたびの運航休止はあったものの、敵潜水艦の間隙を縫う形で、稚泊連絡船は運航を続けていたのである。