始まった南樺太からの緊急輸送。逃げる人々を最後まで支えた“計画”
そうしていよいよ大戦も最末期の1945年8月8日。南樺太と国境を接していたソ連が、いよいよ対日宣戦を布告する。そして翌8月9日にはソ連軍が侵攻を開始。南樺太でも、国境線に近い古屯からソ連軍との戦闘がはじまった。こうした中で行われたのが、南樺太の人々の引き揚げ、緊急疎開輸送である。
実は、ソ連軍の侵攻以前から、樺太庁や軍部では非常時の住民輸送計画を検討していた。対ソ連ではなく対米を意識してのものだったようだが、実態としてはどちらも変わらない。その計画は、南樺太が戦場になるまでに老人や子ども、女性を北海道方面に疎開させるというものだ。
実際にソ連侵攻がはじまり、この計画をまさに実行に移すことになる。樺太庁や陸軍第88師団が中心になって緊急疎開の方針が決定。僻遠地や戦地を優先し、15日間で16万人を北海道へ。南樺太内の鉄道をフル活用するのはもちろん、稚泊連絡船の宗谷丸を中心に周辺の船を貨物船・軍用船問わずに集結させての決死の疎開輸送計画であった。
その第1便は8月13日。稚泊連絡船の宗谷丸が、大泊から稚内に向けて出港した。しかし、宗谷丸の定員790人に対し、乗客は700人にも満たなかった。その大半は樺太庁や88師団関係者の家族ばかり。まだ南樺太全体が戦場になっていたわけではなく緊張感が低かったこと、緊急疎開の方針が徹底されていなかったことが背景にあったようだ。
また、まだ終戦前であり、いくら女性や子どもといった非戦闘員とはいえ、家を捨てて樺太を去ることに対して非国民とみる向きも少なからずあったという。そうした事情から、緊急疎開も序盤はまだまだ規模が小さかった。
終戦の日“以降”に熾烈を極めていく輸送。すし詰めの疎開者たちの中には青酸カリを飲むように渡されたものも…
とはいえ、ソ連の侵攻が拡大するとともに避難する人々は増えてゆく。8月15日に終戦を迎えると命を賭して樺太に残り、ソ連と戦う理由はない。
民間の義勇団は解散となり、樺太庁の行政機関や軍などの一部を除いて、ほとんどの人が先を争って北海道を目指すようになる。つまり、本格的な樺太からの緊急疎開輸送は終戦の15日を境に本格化したというわけだ。ここからの疎開輸送はまさに熾烈を極めてゆく。
樺太の鉄道は貨物輸送が中心で、お客を乗せる客車の類いは限られていた。そこで有蓋・無蓋とわず貨車を連結し、その中に疎開者をすし詰めにして運ぶことになった。大泊などに避難民を降ろすと、すぐに折り返してまた新たな避難民を乗せてまた走る、ダイヤも何もないようなピストン輸送だ。