映画における意図された「政治性」よりも大切なもの
思い返せば、スピルバーグの前作『ウエスト・サイド・ストーリー』は、エンドクレジットとエンドロールの合間に「For Dad」と記された作品だった。芸術全般に造詣が深かったのは母リアの方だったが、父アーノルドが一番好きだったレコードが、レナード・バーンスタインによるオリジナルのミュージカル版『ウエスト・サイド物語』(1954年)のレコードだったという。
長らく映画表現におけるVFXやCGIの技術革新の牽引者であり続けてきたスピルバーグは、その前作『レディ・プレイヤー1』(2018年)を一つの区切りとして、その後は自分にとっての「最後の映画」を撮り続けているのだろう。
『フェイブルマンズ』が恐ろしいのは、母親を追い込んでしまった時のようにフィルムは思いがけず真実を捉えてしまうこともある一方で、編集によっていくらでもその真実は裏返ってしまうということも描いているところだ。
ハイスクールの卒業時に制作した作品で、主人公は在学中に自分に対して差別的な言葉を浴びせてきた同級生の一人を間抜けな存在として描き、もう一人の同級生を嘘のようにパーフェクトなヒーローのように描く。プロムでその作品が上映されると、出席者たちはまんまと一人の同級生を嘲笑し、もう一人の同級生を崇めるようになる。主人公はフィルムで母親に真実を突きつけたあの日のように、上映中に会場を抜け出して、校舎の廊下で膝を抱えて茫然自失状態となってしまう。まるで、手に負えないスーパーパワーを獲得してしまったことで苦悩するスーパーヒーローのように。
大人になってからのスピルバーグのいくつかの作品がそうであるように、彼は自分の意志で作品をコントロールすること、つまり映画における意図された「政治性」よりも大切なものに気づいていた。すでに芽生えていた映画作家としての本能が、カメラで捉えた被写体を、映画的に最も相応しい役割へと導いたのだ。
スピルバーグにとっての「映画についての映画」とは
多くのスピルバーグ作品がそうであるように、『フェイブルマンズ』にも目を見張るようなエピローグが用意されている。「親からの独立」を果たした主人公は、そこでデヴィッド・リンチ演じる「映画の父」ジョン・フォードからアドバイスを受けて、やがて新しい親=ハリウッドのスタジオシステムの庇護のもと大きなステップを踏み出していく。
しかし、作品が終わった後に忘れがたい印象を残すのは、それまでの過程で繰り返し描かれることで強調されている、映画という「危険物」が持つ全能の力を手にしてしまったことに怯える少年の姿だ。
確かに、『フェイブルマンズ』は自伝映画であると同時に、やはり「映画についての映画」ではある。ただし、スピルバーグにとっての「映画についての映画」とは、少年時代に観てきた名画の数々や、少年時代に撮ってきた習作の数々をただノスタルジックに振り返るようなものではなく、あの頃の「恐れ」と「慄き」の感覚をもう一度生々しいものとしてキャプチャーすることだったのだ。