2020年代に入ってから、日本で劇場公開される「ハリウッド映画」の本数が極端に減少していることに、気づいているだろうか。

 映画・音楽ジャーナリストの宇野維正さんは、配信プラットフォームの普及、新型コロナウイルスの余波、北米文化の世界的な影響力の低下……などにより、今、ハリウッド映画が危機に瀕していると指摘する。

 ここでは、宇野さんの著作『ハリウッド映画の終焉』(集英社新書)より一部を抜粋。ハリウッドの変化の一端を担う「#metooムーブメント」に火をつけた映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』の章を紹介する。(全2回の1回目/後編に続く

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『プロミシング・ヤング・ウーマン』以降

 その作品を一度観てしまったら、もうそれまでと同じような映画の見方ができなくなる。映画にはそういう「○○○以前」や「○○○以降」という言葉で語るのが相応しい作品が存在する。

 例えば、スティーヴン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』(1997年)の前半の戦場における主観ショットを繋いだ撮影やリアルな銃弾の音を体験してしまったら、これまでの戦争映画の戦闘シーンが長閑なものに見えてしまうように。

例えば、ポール・グリーングラス監督の『ボーン・スプレマシー』(2004年)のブレブレの手持ちカメラとスピーディーな編集で捉えられた肉弾アクションとリアルな打撃音を体験してしまったら、これまでのアクション映画の格闘シーンが鈍重なものに感じてしまうように。

 実際、それらの作品が開拓した手法は数年後、ハリウッド映画の戦場描写やアクション演出の新しいスタンダードとなっていった。

©AFLO

『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020年)を観て最初に思ったのは、「ハリウッド映画はこれから『プロミシング・ヤング・ウーマン』以降の時代に突入することになるんだな」ということだった。もっとも、それは演出面ではなく、作品のテーマ、及びその扱い方についての話だ。

 1985年ロンドン生まれ、公開当時34歳のエメラルド・フェネルにとって長編映画監督デビュー作となった『プロミシング・ヤング・ウーマン』は、それが初監督作であることが信じられないほど演出やプロダクション・デザインにおいて洗練された作品ではあるが、ここでは本作のプロットや語り口、及びその製作体制に焦点を当てていく。

プロットはヘビーでシリアスだがビジュアルはポップ

 タイトルの『プロミシング・ヤング・ウーマン』を直訳すると「前途有望な若い女性」。これは、2015年にスタンフォード大学構内の宿舎で開かれたパーティーで、水泳部のスター選手だった当時19歳の男子学生が、酩酊状態にあった当時22歳の女子学生をレイプした事件の裁判において、裁判官が被告の男子学生に大幅な減刑(求刑の禁錮6年に対して、判決は禁錮6ヶ月と3年の保護観察)を言い渡す際に「前途有望な若者の未来を奪ってはいけない」と添えた言葉をそのまま反転させたものだ。

 同じような事件、及び明らかに不当に思える判決はアメリカの社会で継続的に起こっている出来事で、『プロミシング・ヤング・ウーマン』はそれを許している社会構造そのものを、被害者の親友だった主人公の視点から告発する作品となっている。