しかし、映画はソーシャルメディア上のハッシュタグアクティビズムではないし、街中のデモで掲げられるプラカードでもない。
いや、ハッシュタグやプラカードのような映画も存在するし、それを支持する一定数の観客がいるならば、そのような作品にも存在価値はあるのかもしれない。しかし、『プロミシング・ヤング・ウーマン』では重要な視点が提示される。ワインスタインのようにあからさまに悪人顔の権力を握った老人ではなく、一見優しくて知的で清潔な若い男性であっても、あるいは普段は同性の権利や主張に理解がある柔和な女性であっても、#MeTooというイシューにおいては無関係な者などいないということ。
誰もがそうした認識を持つことは、ハッシュタグやプラカード以上の力を持って、このムーブメントを表面的なものではなく本質的に、そして一時的なものではなく長期的に後押しすることになるはずだ。
後戻りのできない一歩を踏み出したハリウッド映画
また、映画史的な観点からも、自分は『プロミシング・ヤング・ウーマン』を極めて重要な作品だと捉えている。
#MeTooムーブメントの発火点になったという事実によって、ハリウッドはその当事者として改革を強く求められることになり、それはスタッフィングやキャスティングだけでなく作品の内容にも確実に及んでいる。そこで映画作家としても突出した才覚を持ち、客観性やバランス感覚にも優れたフェネルが、『プロミシング・ヤング・ウーマン』で選択したアンチ「ハリウッド的な空虚なカタルシス」、言い換えるならある種のバッドエンドは、ベトナム戦争への反戦運動やそれに起因する厭世ムードの中で60年代後半以降に世に送り出されてきた、日本で言うところの「アメリカン・ニューシネマ」の諸作品がもたらしたインパクトにも通ずるのではないか。
自分が「『プロミシング・ヤング・ウーマン』以降」と冒頭に掲げたのは、したがって「#MeToo以降」という意味だけではない。#MeTooの時代を経て、映画は─少なくともハリウッド映画は─後戻りのできない一歩を踏み出すことになった。そして、それは厳しい内省や自己批判を必然的にともなう以上、決してスウィートなものやハッピーなものにはなり得ないだろう。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』は興行的に成功を収め、2021年のアカデミー賞で作品、監督、主演女優、脚本、編集の5部門でノミネート、そのうち脚本部門で最優秀賞を受賞した。その後もフェネルは映画やテレビシリーズやミュージカル作品で役者業、脚本業ともに大きな仕事が続いているが、『プロミシング・ヤング・ウーマン』の成功でエンターテインメント業界において大きな発言権を勝ち取ったことで、映画監督としての次作を作りたいタイミングで作りたい作品を作りたいスタッフと撮ることができる確固たるポジションを手に入れた。
目先のキャッチフレーズに飛びつくのも当事者であるならば当然のことだが、フェネルのような存在が5年、10年と活動を続けて着実に影響力を増していくことで、ハリウッドは本当の意味で生まれ変わっていくのだろう。