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 もっとも、まさに『プロミシング・ヤング・ウーマン』が問いただしたように、その傍観者にまで罪があるとするなら、ハリウッドの内外を問わず映画産業に長年従事してきた者の中に、果たして完全に「無罪」の者などいるだろうか?

 プロデューサーや監督といった権力を持つ者たちにキャスティング権があり、そこでは性別を問わず性的魅力も役者の「商品性」に含まれ、少なからずその部分を強調した宣伝が展開されて、作品によって程度の差こそあれその「商品性」がファンによって消費される。

 ハリウッド映画に限らず、役者の現実離れしたような美しい容姿を売り物の一つとしてきた映画という表現形態は、その構造自体が不可避的に広義の「性の商品化」を含んできた。意識の変革やアップデートというのは便利な言葉だが、現実的にはプロデューサーや監督の女性比率を上げることや、性的なシーンの撮影を指導して役者の尊厳を守るインティマシー・コーディネーターの導入など、個別の施策によってのみ実質的な変化や前進はもたらされるのではないだろうか。

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 自らも役者として活躍中の脚本・監督のエメラルド・フェネルがプロデューサーを兼任し、そこに現在のハリウッドを代表する人気女優マーゴット・ロビーが名を連ね、主演のキャリー・マリガンがエグゼクティブ・プロデューサーを務め、性的なシーンや言葉がなくても性的な主題を扱ったシャープな作品を作ることができることを証明した『プロミシング・ヤング・ウーマン』。

 #MeTooムーブメント以降、直接的、あるいは間接的に「男性による女性に対する性暴力」を扱った作品は増えているが、『プロミシング・ヤング・ウーマン』はその製作体制や題材へのアプローチ方法において一石を投じた作品だった。

エメラルド・フェネルの逡巡

 本作の公開時には、主に女性の批評家や観客から批判的な声も上がった。批判の一つは、物語の始まりの時点ですでに他界している、性的暴行の被害者ニーナへの言及があまりにも少ないことに対して。被害者の人権よりも加害者の人権について多くが語られ、(プライバシーへの配慮もあるのだろうが)誰も被害者については語りたがらないという、男性による女性への性的暴行事件の際に法廷でしばしば起こる事態を追認しているだけなのではないか、という指摘だ。確かに、本作においてニーナの存在は主人公キャシーのアイデンティティの拠り所でしかない。

『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020) ©AFLO

 しかし、現代のアメリカが舞台でありながら、プロダクション・デザインにおいてはネオンサインのビルボードに代表される80年代的な小道具が多用され、キャシーに宗教画の天使や聖人のイメージを繰り返し重ねている象徴主義的な本作を、どこまでリアリズム作品として論じるべきかについては慎重にならなくてはいけないだろう。

 もしキャシーを天使、つまり「この世ならざるもの」とするならば、ニーナの実在性が希薄であるのもそれと対になったものなのだろうし、ニーナがこの世を去った後、キャシーはニーナの「生まれ変わり」として生きているという解釈も可能なのではないか。