小学生のときに読んだ『はだしのゲン』は今も忘れられません。原爆投下後の生き地獄のなか家族を失いながら生き抜く少年ゲン、戦争反対を口にするゲンの父親を「非国民」と呼び虐める一般人の存在や、不条理な訓練のなかで自死した兵士の死を偽った軍隊組織、また、広島への原爆投下直後に日本が降伏していたら長崎の何万人もの人は助かった可能性があったという記述。戦争の中で起きる不条理の連続に胸を引き裂かれながら読みました。
あるいは、両親が「特攻の町」知覧で買ってきた本の中に記された特攻隊員の手紙。特攻を前にして、恐怖の気持ちを語ったり、好きな人への思いを語ったり、果たせなかった夢が綴られた手紙を読み、それを書く彼らの思い、そして手紙を受け取った家族の思い(多くの手紙は家族には送られずに葬られたそう)を想像すると涙が止まりませんでした。彼らの写真を見ると、まだあどけない表情の思春期の子ども達も多く、日本という国は子どもに自殺を命じた国だったのか、と悲しくなったのを覚えています。
祖父母らが語った戦争の記憶
広島出身の私の父方の祖父の親戚は世代を超えた被爆の影響を語り、母方の祖父は通信使としてボルネオ島に行ったときに目にしたものを語り、曾祖母は東京大空襲でがれきの下敷きになった経験を語ってくれました。また、それぞれ戦時中に抱いた価値観が、戦後、時間をかけて徐々に変わっていった過程なども話してくれました。
多くの自国の兵士が餓死してしまうような戦略を立て、特攻や手りゅう弾での自殺を命じ、一つ目の原爆投下後にも終戦の判断ができなかった当時の日本。「お国のために」というスローガンのもと、多くの犠牲や窮地の生活を強いられ、自分の家族さえも大切にさせてもらえない国民のフラストレーションの矛先は、侵略国の国民や(国際法では保護しなければならない)異国の捕虜への残虐な行為、また反対意見を口にする「非国民」などに向いてしまった日本。
戦後、そんな日本に言論の自由や民主主義をもたらしたのはGHQでした。私は今年4月に出版した『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る』という本の中で、日本国憲法に女性の権利を記載した、ユダヤ系アメリカ人のベアテ・シロタ・ゴードンの半生を紹介しました。
22歳の若さで、日本国憲法草案作成チームに
ピアニストである父親レオ・シロタが東京音楽学校の教授に就任したことで幼少の時期に日本に移住し、日本を愛し、日本で育ったベアテは日本語と日本文化を深く理解していることを買われ、22歳という若さで日本国憲法草案作成チームに指名されたのです。