さかのぼれば、さらにその前には東京都豊島区の地域施設でも「春の七草の寄せ植え講座」の講師を務めており、肩書は「樹木園芸研究所所長」とだけ記されている。
こうした流れを踏まえると、私達がイメージする普通の詐欺事件とはかなり様相が異なるようだ。
そもそも、どこで一定の農業知識を得たのか。「東大教授」らしからぬ内容だったにせよ、人前で講話をするだけの能力はあった。「果樹栽培の実践的なことも知っていた」と福島の桃農家は話す。「寄せ植え講座」の講師を始めた頃には、東大教授を騙(かた)っていたのか。なぜ、東大や宮内庁の関係者を名乗り、全国を股にかけて農家をだましたのか。しかも、福島では桃農家の窮状に付け込んだ。
自称教授は一体何が目的だったのか? 桃はどこに消えたのか?
自称教授はAさんをたびたび訪ねていたようだ。「何が目的だったのでしょう。『献上桃』はどこに消えたのか。非常に不可解です」。桃農家の1人は首を傾げる。
捜査でどこまで解明されたのか。福島県警捜査2課に尋ねると、「詳細はお話しできません」という回答だった。起訴され、公判に持ち込まれれば、農家が納得できるだけの情報は明らかにされるだろうか。
Aさんは今、「皆の夢を壊した」と意気消沈している。
自分がだまされただけで終わらず、市長や市役所が絡むという事態になった。それだけではない。地元の若手農家を巻きこんでしまったのが、悔やんでも悔やみきれないようなのだ。
関わる人間が増えてしまったのは、Aさんが住んでいる地区ならではの事情もある。「いいことには皆で取り組もう」という伝統があったのだ。これが果樹王国と言われる福島でも随一の桃産地に発展する原動力になった面もある。
この地区の歴史を少し振り返っておきたい。
かつて福島市の北部は、伊達郡や信夫(しのぶ)郡に属する小さな町村に分かれていた。1955(昭和30)年の昭和合併で一つの町になり、さらには1964(昭和39)年に福島市へ編入された。
戦前の主力産業は養蚕だった。果樹園もありはしたが、本腰を入れたのは戦後になってからだ。ただし、戦争中も果樹栽培をやめなかった篤農家がいて、果樹栽培の技術は温存されていた。
1950(昭和25)年、そうした人々を中心にして農協内に「果樹研究会」が設立された。