桃栽培で福島は常に先進的な取り組みを行なってきた
農協といっても現在のような大合併をした組織ではない。1983(昭和58)年までは、昭和合併前の小さな町村ごとに農協があり、特にAさんの地区では結束力が強かった。
果樹研究会では役員が地区全体に栽培技術を広めたので、ほとんどの農家が桃やリンゴを栽培するようになった。
その後は一丸となって品質向上に取り組んだ。
自前の共同選果場を建設して出荷する桃の均一化を図り、この選果場で働く要員を確保するためには季節保育所も運営した。
1962(昭和37)年には、それまで木箱で出荷していたのを、10kg詰めの段ボール箱に変えた。桃の産地では全国初だったといい、山梨や岡山が追随した。
袋を掛けない「無袋栽培」も福島県内では先駆けて導入し、太陽をいっぱいに浴びて赤々と染まった桃を出荷した。九州まで出荷したのも福島県内では最初だった。
そうした先進的な取り組みが評価されて、1963(昭和38)年に朝日新聞社が創設した第1回の朝日農業賞を受賞している。
以後も農協が中心になって山間部に樹園地を造成したり、サンピーチといった名前でブランド化を試みたりした。国会農林水産委員会などの現地調査班は何度も視察に訪れている。
「いいことは皆で」が招いた皮肉な結果
「いいことなら、わっと集まって取り組む土地柄です。注目される産地になったのは、『いいことは皆でやろう』という気風があったからでした」と、しみじみ語る農家もいる。
モモせん孔細菌病の蔓延を目の当たりにしたAさんが、若手農家を誘って勉強会を結成したのは、こうした伝統に則った行動だったと言える。
もし、研究熱心な農家が少なく、まとまりのない地区だったら、巻きこまれた農家は少なかったはずだ。「いいことは皆で」という気風が詐欺によるダメージを拡大させたとするならば、あまりに皮肉だ。
そして桃産地としてのイメージと、農家の心は大きく傷ついた。
だが、事件の背景を知れば知るほど、どれほど「美味しい桃」を追求してきた地区か気にならないだろうか。残念な事件ではあるものの、「食べてみたい」と思う人が増えるきっかけになってほしい。