この日は「第十一青函丸」からのアメリカ兵らも加わって、乗客定員をオーバーしていた。出発の遅れに不満を漏らす乗客もいた。(1)先を急ぐ一部乗客からの要請(2)国鉄幹部の乗船(3)米軍物資輸送の負担――という精神的重圧が加わって「テケミ貫徹」の決断を鈍らせたのではないか、という見方が成り立つ。台風15号の動きや天候の変化について、当時の気象台も原因を理解していなかった。近藤船長が気象に詳しく、その後の天候の先読みができたことが裏目に出たといえる。
乗組員らが船室の鍵を閉めて乗客を閉じ込めた!?
異常な台風の動向と船体構造の欠陥、そして国鉄内部の運航の問題点はある程度理解できる。それでも、砂浜に座礁したのに、なぜその後横転したのかという疑問が浮かぶ。
それには元青函連絡船船長の田中正吾「青函連絡船洞爺丸転覆の謎」が答えてくれる。それによれば、座礁時、洞爺丸の右舷のビルジキール(横揺れ防止のため、船底の両側の湾曲部に前後に長くヒレ状に取り付ける部材)が海底に突き刺さり、一点支持になっているところへ大波が来て横転したのだという。つくづく不運だったというしかない。
さらに、転覆したのが陸地から目と鼻の先なのに、なぜあれだけの人間が犠牲になったのか。いくら荒天下であっても信じ難い。何かがあったのではないかと考えるのは当然だろう。記録によれば、座礁から転覆まで約19分。避難・誘導はどうなっていたのか。
三等船室の給仕の証言によれば、乗客に救命胴衣を着けさせて上階に誘導したこともあったという。一等、二等船室の給仕は全員死亡したので詳しいことは分からないが、興味深い指摘がある。「海と安全」2015年秋号に掲載された福地章・海技大学校名誉教授の「洞爺丸遭難す!」という論文はこう書いている。
乗客、乗組員の計1314人のうち、生存者がわずか159人、死亡者が1155人という大惨事となった。生存率はたったの12%にすぎない。
それには次のことが原因として挙げられるのである。乗客が外に出ると波にさらわれて危ないと、給仕・乗組員が彼らを部屋に押しとどめ、1カ所を残し、各部屋の鍵を閉めて回ったのである。こうして転覆のとき、出口をふさがれたために脱出が困難となり、多くの者が部屋に閉じ込められてしまった。
外は激浪が荒れ狂っていたとはいえ、水温はまだ高い時期。そして洞爺丸は七重浜の砂浜に座礁したのであるから、救命胴衣を着用してさえいれば、外に出て波にさらわれ、たとえ溺れる者が出たとしても、もっと多くの人が助かったはずである。
「出ようと思っても出られなかったのではないか」
本当だろうか。二等、三等は個室ではなかったはずだから、一等船室のことを指しているのか。筆者は出典を示していないが、符合するような記述が新聞記事にもある。
9月28日付毎日朝刊の阿部二等運転士インタビューで、記者は「船客の多くが船室で死亡しているが、船室から出ないよう誰かが監督したのか」と質問。阿部運転士は「よく分からないが、各船員とも2~3時間すれば救助に来ると慰めたり激励したりしていた。出ようと思っても出られなかったのではないか」と答えている。
9月28日付朝日朝刊の「閉じ込められた船客」という記事で、生存者の1人は「ボーイや乗務員の注意に従って密閉された船室内にいた人はそのまま海底に沈んだようだ」と語り、もう1人の生存者も「ボーイは絶対に客室の戸を開けようとしなかった」と話している。
真偽は永遠の謎だろう。乗客がパニックになるのを避けたいという乗組員の気持ちは分かるが、鍵まで掛けるのはいくらなんでもやりすぎ。しかし、この事故で明るみに出た国鉄の“親方日の丸”体質は根本的には変わらず、それが最終的に1987年の国鉄民営化につながったように思える。
「海上保安事件の研究第65回」は高等海難審判庁の裁決について説明したうえで、こう書いている。「運航管理体制の不適切という指摘は、形は異なれど、また船舶か鉄道かという種別が違えど、JR尼崎線の事故(2005年)など、さらに近い過去に発生した事件・事故に関しても、なお当てはまりそうな指摘を含んでいるように思われる」。正しい指摘だろう。
【参考文献】
▽国鉄研究会編「国鉄にもの申す」 東洋経済新報社 1955年
▽毎日新聞社社会部編「事件の裏窓」 毎日新聞社 1959年
▽田中正吾「青函連絡船洞爺丸転覆の謎」(交通ブックス211) 成山堂書店 1997年
◆◆◆
生々しいほどの強烈な事件、それを競い合って報道する新聞・雑誌、狂乱していく社会……。大正から昭和に入るころ、犯罪は現代と比べてひとつひとつが強烈な存在感を放っていました。
ジャーナリスト・小池新による文春オンラインの人気連載がついに新書に。大幅な加筆で、大事件の数々がさらにあざやかに蘇ります。『戦前昭和の猟奇事件』(文春新書)は2021年6月18日発売。