うそのような本当の話というのだろうか。まだある。
▽洞爺丸で遭難した会社員(36)の妻(30)が事故2カ月目の11月27日にガス自殺した。「この世に生きていく気を失いました」との遺書があり、部屋の仏壇に白菊を供え、香をたき込めてあったという。(11月27日付夕刊各紙)
▽事故から1年。収容されても身元が分からないなどの22体の遺骨が、安置されていた寺から函館市に引き渡された。その中には、氏名が分かりながら引き取り手が現れない薄幸のさすらいのギター弾きと妻と長女の遺骨も。同情して金を与え、一緒に洞爺丸に乗って自分は出港前に下船した女性旅館経営者が供養した。(1955年11月26日夕刊読売)
▽北海道上磯町の印刷工(26)は事故後、函館市の慰霊堂を訪れ、身元不明の女性の遺体を眺めながら声を殺して泣いていた。係員が事情を聴くと「これは私の妻だ。家庭の事情で妻は東京の実家に帰り、別居中だった。先月、身の回りの整理をすると言って戻ってきたが、やはり落ち着いていられず、洞爺丸で……」と言って泣き続けた。青函局では彼の話を信じて死亡確認書を作成。彼は火葬にしたのち、香典や見舞金など計7万4000円(現在の約44万円)を受け取った。ところが彼がずっと独身だったことが分かり、詐欺容疑で検挙された。(「国鉄にもの申す」)
ほかにも、妻が夫の遺体確認を間違ったり、遭難死した男性の見舞金をめぐって「内縁の妻」と実母が争ったり、弔慰金目当てに「遭難者と内縁関係にある」と自称する女性が1日に3~4人も登場するなど、騒ぎは次々。未曽有の大惨事とあってメディアの反応もものすごかった。
週刊誌ばかりでなく、女性誌は軒並み、遺族の手記や記者を派遣しての現地報告を掲載。歌手渡辺はま子が歌った「あゝ洞爺丸」がレコード発売され、東映東京撮影所で「あゝ洞爺丸」=小沢茂弘監督、宇佐美諄(のち淳也)主演=で映画化された。
言い渡された判決は…
洞爺丸など、青函連絡船5隻の遭難の原因究明と責任の所在を明らかにする海難審判は、事故の翌年1955年2月15日から函館海難審判庁で開かれた。二等航海士ら乗組員2人を受審人(刑事事件の被告に当たる)とし、国鉄総裁や青函局長、中央気象台長らを指定海難関係人として、乗組員や青函局幹部らの審問が行われた。裁決言い渡しは同年9月22日。裁決文の核心部分を同日付夕刊読売で見よう。
洞爺丸遭難は台風15号接近に慎重に判断を行わず、船体の特殊構造を考慮せず出港した近藤船長の職務上の過失により発生したものである。また、同船の船体構造、国鉄の船舶運航管理にも欠けるところがあり、これも一因と考えられ、十河(信二)国鉄総裁(長崎の後任)にはこれらの改善を勧告するが、高見・前青函局長には勧告の必要はない。気象関係者は本件遭難には関係ない。
同じ日付の朝日は「裁決結果は理事官(検察官)論告の根幹を認め、補佐人(弁護人)側が主張した不可抗力説を根本的に否定した」と位置付けた。理事官側、国鉄側とも二審を請求したが、1959年2月9日の東京高等海難審判庁での裁決は、国鉄総裁への勧告は取り消したものの、大筋で一審を支持。“人災”と判断した。
国鉄側はなお裁決取り消しを求めたが、東京高裁、最高裁とも請求を却下、棄却した。一方、北海道警函館方面本部は1955年9月27日、近藤船長、高見・前青函局長ら5人を業務上過失往来危険と業務上過失致死の容疑で書類送検したが、函館地検は11月、全員不起訴とし、刑事責任追及はされないまま終わった。