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「おわび」でなく「謹告」だったことや「痛惜」「遺憾」といった言葉遣い、さらに「今後北海道方面の輸送は相当制約をされることになる」と述べたことが遺族や生存者らにどう受け止められたか、想像に難くない。国鉄研究会編「国鉄にもの申す」(1955年)は「洞爺丸事件への非難もさることながら、この広告にはそれに輪をかけた痛烈な批判が飛んだ」と書いている。確かに傲慢で横柄な態度にとれる。

不評を買った国鉄総裁の「謹告」広告(朝日)

発見された船長の遺体

 青函連絡船は日露戦争終結後の1908(明治41)年に開業。本州と北海道を結ぶ基幹ルートとして旅客・物資の輸送を担ってきたが、太平洋戦争末期、アメリカ軍機の爆撃や触雷、事故などで14隻が沈没して壊滅した。敗戦後、青函連絡船の復興を目指し、同型船4隻の第1号として完成、就航したのが洞爺丸だった。

 1954年8月7日には、北海道に視察旅行に向かう昭和天皇夫妻を乗せて話題に。事故が起きたのはその約50日後だった。その後も事故をきっかけに計画が進められた青函トンネルの開通(1988年)で姿を消すまで運航が続けられた。

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 遺体は「きのう55体を収容」「けさ十体を収容」「きのう百三体」と続けられた。乗船名簿に記載されていない犠牲者も次々発覚。そんなさなか、10月3日付読売朝刊に近藤船長の妻の手記が載った。「船と運命をともにした」「“船長の妻”なるがゆえ浴びせられる世の批判の矢面に立って痛む心をじっとこらえている」という記者の前置きに続いて、妻は夫への強い信頼を表し「許されないことでしょうが、任された多くの生命を失った夫の罪を、どうかこの妻と子に免じて許してやってください」と結んだ。

洞爺丸の船名板(引き揚げ後、切り取って殉難船碑にはめ込まれた)

 その船長の遺体が発見されたのは10月3日の朝。同日付朝日夕刊は「遭難時の姿そのまま」の見出しで、発見、収容した海上自衛隊掃海艇艇長の目撃談を伝えた。「首から双眼鏡をかけ、制服の上にビニールのレインコートを着て靴を履いたままだった。救命胴衣は着けず、いまにも立ち上がって船の指揮をとりそうな立派な姿だった」

続々と「うそのような本当の話」も…

 1100人を超す犠牲者とあって、その後も事故をめぐってさまざまな悲喜劇が生まれた。

▽函館市港外の桟橋に漂着した若い女性の遺体から遺書が見つかり、調べたところ、東京都内の看護師で、失恋の痛手から自殺を決意したが、その前に洞爺丸で事故にあったらしいと分かった。(10月5日付読売朝刊)

 

▽七重浜に陸揚げされた死体はトラックで慰霊堂に運ばれるが、9月27日ごろ、慰霊堂に到着したトラックから作業員が30歳ぐらいの男性を降ろそうとするとむっくり起き上がった。調べた結果、仮死状態にあったものが、20分余りのガタ揺れのトラック道中で“人工呼吸”され、息を吹き返したと分かった。後で当のご本人。「函館の道路が悪いため助かりました。市長さんによろしく」。(10月4日付函館新聞)

 

▽奈良市の46歳金属分析業者が洞爺丸で遭難。妻が火葬して遺骨を自宅に持ち帰り、10月13日夜、通夜をしていたところ、函館から「ブジ」の電報が。発信人は、業者と商売上で接触があった函館市営火葬場の管理人の名前を使っていた。収容されたとき遺体は丸裸で、貴金属をめぐる背景があるらしく、妻の到着前、「身寄り」を名乗る3人が引き取りに現れたという。妻は「気味の悪い話です」。(10月14日付朝日朝刊)