2日後、タカユキさんは熊本で火葬され、渡辺さんは遺骨を抱いて帰宅した。
息子に何が起きたのかも分からないまま「ただ泣いて暮らしていた」というが、秋になりようやく弁護士に相談するだけの気力と体力を取り戻した。そして今回、渡辺さんが依頼した東京の林治弁護士たちが業者側に直接事情を聞くことになり、渡辺さんも一緒にまた熊本を訪れることになった。私はその旅に同行させてもらった。
『研修』とは一体どんなものだったのか
タカユキさんは元海上自衛官だった。今回の旅に先立ち、私は渡辺さんが暮らす家で、生前の様子を伺い、写真をみせてもらっていた。真っ白い制服を着て、両手両足を伸ばして行進する様子や、集合写真で後ろの列に立ち、正面を見据える精悍な顔つき……。彼女にとっても誇らしく、自慢したくなるような息子だったに違いない。
「タカユキさんが受けていた『研修』とは一体、どんなものだったのだろう。彼の身に何があったのか。毎日、どんな風景をみて、どんな思いで、過ごしていたのか」
あれこれと思いをめぐらせているうち、いつの間にか飛行機は着陸態勢に入っていた。羽田から鹿児島まではわずか二時間弱。九州の南端に近い場所でも、飛行機ならあっという間の距離だ。だが、その距離はタカユキさんにとって、とてつもなく遠いものだった。
家を出たタカユキさん
かつて2人で暮らしていた埼玉県の自宅に、民間施設「あけぼのばし自立研修センター」(東京都新宿区、2019年12月に破産)の職員ら5人がやってきたのは、17年1月のことだった。
タカユキさんを「説得」し、部屋から連れ出し、施設に入れるのが目的だった。
渡辺さんによると、タカユキさんが自宅にひきこもるようになったのは26歳のころだ。子どものころから友達が多く、小学校では皆勤賞ももらっていたというタカユキさんは、当時、家族で住んでいた栃木県内の高校を卒業後、海上自衛隊に入隊。3年の任期を務めたが、その後就職した機械メーカーで上司との関係に悩み、ふさぎこむようになったという。
やがて会社を退職した。
外出を拒むようになり、仲の良い幼なじみが自宅に来ても会いたがらなくなった。だが渡辺さんは、当時はそれほど心配していなかったという。
「会社でいろいろと納得のいかない悔しい思いをしたようでしたが、誰の人生にもそんなときはあります。しばらく休んで元気になって、また自分にあった仕事を探せばいい、と」
まだ50代だった渡辺さんは看護師で、自身の仕事も忙しく、充実していた。何よりタカユキさんとはそれまで通りに会話を交わしていたし、掃除や洗濯など家の手伝いなどもよくしてくれていたという。