自宅を売却し、研修費用を賄うことに
K氏は「役所に相談しても結局、何もしてくれません。行政には何もノウハウがないのだから」といった趣旨の話をしたという。このとき渡辺さんは「本当にその通りだ」と思い、涙が出そうになったと振り返る。市役所の福祉窓口などをさんざん訪ね、落胆し、途方に暮れるだけの数年間を過ごした経験があるからだ。
K氏は「研修費用」をその場で計算し始めた。提示された金額は半年間で910万円。予想もしていなかったその額に驚いたが、それくらい深刻な問題なのだと受け止めた。
「長期化、高齢化するほど解決が難しくなります」
K氏の言葉が重く響いた。母と娘はその場で顔を見合わせ、うなずいた。契約することを決めたのだ。
足りない費用は自宅を売却して賄うことにした。夫と共働きで購入し、タカユキさんも30年近く暮らした愛着の深い家だ。
「どうせ長男のタカユキにあげるつもりだったんだから、これでいいんだと……」
もう迷いはなかった。だが、売却を急がなければならず、売値は思っていたよりずっと安かったという。
東京・新宿のセンターに入所
初めてセンターを訪れてから10日後の1月18 日、5人の職員が自宅にやってきた。1人は今後タカユキさんの担当になるというO氏。他の3人は「ガードマン」だと説明を受けた。
センターの指示で、職員らが家に来ることは内緒にしていたという。タカユキさんからすれば抜き打ちだが、渡辺さんが疑問を抱くことはなかった。
2階のタカユキさんの部屋に3人を案内すると、「お母さんは下にいてください」と強く指示されたのを覚えている。
30分くらい経ったろうか。居間で様子をうかがっていると突然、「わーっ」という泣き声が聞こえてきた。間もなくジャージ姿のタカユキさんが、職員らに前後を挟まれるようにして階段を下りてくるのがみえた。
渡辺さんは、海外出張が多かった夫の形見の大きなスーツケースに、真新しい背広や靴、着替えを入れて用意していて、それを職員に預けた。
「そうだ、当面のお金を渡しておかなきゃ」
封筒に現金をいれてタカユキさんに渡そうとすると、横にいた職員がさっと受け取り、車に乗り込んだ。走り去るワゴン車を玄関先で見送ったのが、息子を見た最後になった。
タカユキさんは東京・新宿のセンターに入所した。親子が直接連絡をとることは固く禁じられたため、タカユキさんの様子が気になる渡辺さんは、毎週のようにセンターの担当者であるO氏の携帯に電話を入れたという。
あるとき電話にでたO氏から「お母さんは過保護ですね」と厳しい口調でたしなめられた。
「タカユキさんを信じないんですか。頑張っているタカユキさんに失礼です」
それまで自分が過保護だという意識はなかったが、O氏がそう言うならそうかもしれない。渡辺さんは以後電話を控えることにした。