その後、天下統一を果たした秀吉は、天正20年(1592)、朝鮮への出兵を敢行。しかしその最中、島津家臣・梅北氏が挙兵し、九州の豊臣大名の領地に侵攻するという事件を起こす(梅北一揆)。
この反乱はすぐに鎮圧されたが、挙兵に歳久家臣が参加していたことが発覚し、秀吉は激怒した。
もともと歳久は、豊臣政権の心証が悪かった。
義久、義弘が自ら出頭して臣従の意を示したのに対し、病床にあった歳久は降伏の際も、使者を送るだけだった(四男・家久は降伏の意を伝えるも、秀吉に拝謁する前に病没)。また、九州征伐後、秀吉が歳久領を通過した際、何者かから矢を射かけられたことがあり、秀吉はこれを歳久が嗾(けしか)けたものと見なしていた。
その他様々な理由から、歳久は世間から、島津家中における反豊臣の急先鋒として見られていたのだった。
そして、秀吉は義久に命じた。
「歳久の首を差し出せ」
秀吉は言う。もともと、歳久は自分に対して数々の曲事を働いた男であり、本来であればそのとき処罰してもよかったが、義久・義弘の降伏に免じて見逃していたのだ、と。
だからこそ、梅北一揆の件は、秀吉にとって許せることではなかったのだろう。あるいはこの天下人は、家臣ではなく歳久自身が、反乱に関与していたと疑っていたのかもしれない。
義久は、豊臣政権下で島津を守るため、この非情な命令を受け入れるほかなかった。
最期
兄の命を受けて、歳久は病を押し、島津氏の本拠・内城に出頭した。
ところが、なにを思ったか、彼はその夜のうちに、ひそかに城を脱出し、祁答院へと引き返そうとした。しかし、結局は追っ手から逃げきれず、やがて追い詰められて自害した。享年56。
己の病のことを思えば、逃れられないことぐらい、この「智計の三男」は十分過ぎるほど理解していただろう。また、領地に戻ったところで、生き延びる術など残されていないことも。
そもそも、若い頃から命知らずで知られた歳久が、今さら我が身惜しさに逃亡したこと自体が不自然である。
歳久は、己の行動の結果がどうなるか見越したうえで、あえて逃げたのではないか。