こうした弟の命知らずぶりに、兄の義久は気が気ではなかったであろう。負傷のため後方に下げられた歳久に「いまは精いっぱい養生することが肝要ぞ」などと綴(つづ)った見舞状が伝わっている。
躍進の影で
天正5年(1577)、薩摩・大隅・日向(宮崎県)の三州統一を果たし、南九州の覇者となった島津氏は、その後も怒涛のような勢いで版図を拡大していく。
その一方で、これ以降、歳久の前線での活動は、徐々に見られなくなっていく。
後年、彼は風疾(中風、リウマチなどの総称)を発病し、手足が麻痺して歩行困難となるのだが、あるいはそうした病の初期症状が、すでにこの時期から始まっていたのではないか。白刃の前に身を晒し、寸分も油断が許されない戦場にあって、たとえわずかな痺れや稀(まれ)な発作であっても、武将としては命取りに近い。
もちろん、これはあくまで推測であり、歳久が前線から遠のいていったのは別の理由かもしれない。ただ、どんな事情にせよ、勇猛さを誇り、死をも恐れぬ戦ぶりを示してきた歳久にとって、戦場から離れざるを得ない悔しさは、耐えがたいものがあっただろう。
しかし、彼が「智計の三男」としての才覚を発揮し始めたのは、恐らくこの時期からのことなのだろう。以降、彼は日向に本拠を置いた義弘や家久と異なり、薩摩・大隅国境の祁答院(けどういん)を本拠とし、後方で長兄・義久を支え、重要な評定の場には必ず列席した。
武将としては有能だが独断専行の多い家久、前線諸将の代弁者として、兄と意見対立することもあった義弘らに比べ、補佐役に徹した歳久は、義久にとって心から信頼できる、数少ない相手だったのではないか。
島津家の歳久系譜には、義久から歳久宛ての書状が多く収録されており、二人の親交をうかがわせる。
歳久処刑令
一時は九州を併呑するほどの勢いを見せた島津氏だったが、豊臣秀吉の九州征伐により、天正15年(1587)、降伏する。義久は剃髪して臣従の意を示し、薩摩・大隅2ヶ国と日向の一部を安堵された。
歳久もまた、剃髪して恭順の意を示し、「晴蓑(せいさ)」と法号を名乗った。晴れの日の蓑(雨具)とは奇妙な名乗りだが、この時期、病によって歩行困難になっていた自分自身に対し、「無用のもの、役に立たぬもの」というような、自嘲の意味を込めたものだろうか。