もし、自分が義久の命に忠実に従い、粛々と切腹するようであれば、梅北一揆の裏に歳久が関与していると考えている秀吉は、さらにその裏に、義久がいるのではないかと疑うかもしれない。あるいは、本心では疑っていなかったとしても、そのような言いがかりをつけて、島津の力を削(そ)ごうとするかもしれない。
その余地を完全になくす術は、一つしかない。――兄の命令に背いたうえで、討たれる。
それは、晴天でも雨に備え、あらかじめ蓑を用意するように、先々を見通すことに長けた智将の、最期の策だったのではないだろうか。
歳久が遺した言葉
歳久の辞世としては、次のようなものが伝わっている。
「晴蓑(歳久)めが 玉のありかを人問(ひとと)はば いざ白雲の末も知られず」(一説に「いざ白雲の上と答えよ」とも)
意味としては「歳久の魂は、どこにいったのだと人に問われたら、(無念なく死んで成仏したので)あの雲の彼方に消え去ってわからないと答えてください」といったところだろうか。
やはり歳久は、兄に背くつもりなどなかったのだろう。義久もまた、その思いを理解していたのか、亡き歳久の館跡を訪ねた際、追悼の歌を詠んでいる。
「住馴(すみなれ)し跡の軒端(のきば)を尋(たずね)きて 雫(しずく)ならねど濡(ぬ)るる袖(そで)かな」
その後、歳久の首は京へ送られ、一条戻橋で晒されたが、義久はひそかに人を使って首を奪還し、京の寺院で丁重に葬っている。
やがて秀吉が没すると、義久は歳久の最期の地に、心岳寺(平松神社)を建立した。豊臣政権の反逆者として、表立っては控えねばならなかった弟の弔(とむら)いを、義久はようやく果たしたといえる。
歳久の家督は、孫の常久が継承し、日置(ひおき)島津氏としてその後も続いた。子孫には、幕末期に活躍し、西郷隆盛からも厚い信頼を寄せられた桂久武(かつらひさたけ)などがいる。
参考:島津修久『島津金吾歳久の自害』1982
桐野作人『さつま人国誌 戦国・近世編』3巻 2017
新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』2017
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