文春オンライン

「薩摩武者を率いた四兄弟」の命知らずな三男が…豊臣秀吉を激怒させ、首を狙われた末に用いた「最期の策」とは

2023/09/08

source : 文藝出版局

genre : ライフ, 社会

note

 もし、自分が義久の命に忠実に従い、粛々と切腹するようであれば、梅北一揆の裏に歳久が関与していると考えている秀吉は、さらにその裏に、義久がいるのではないかと疑うかもしれない。あるいは、本心では疑っていなかったとしても、そのような言いがかりをつけて、島津の力を削(そ)ごうとするかもしれない。

 その余地を完全になくす術は、一つしかない。――兄の命令に背いたうえで、討たれる。

 それは、晴天でも雨に備え、あらかじめ蓑を用意するように、先々を見通すことに長けた智将の、最期の策だったのではないだろうか。

ADVERTISEMENT

歳久が遺した言葉

 歳久の辞世としては、次のようなものが伝わっている。

「晴蓑(歳久)めが 玉のありかを人問(ひとと)はば いざ白雲の末も知られず」(一説に「いざ白雲の上と答えよ」とも)

 意味としては「歳久の魂は、どこにいったのだと人に問われたら、(無念なく死んで成仏したので)あの雲の彼方に消え去ってわからないと答えてください」といったところだろうか。

 やはり歳久は、兄に背くつもりなどなかったのだろう。義久もまた、その思いを理解していたのか、亡き歳久の館跡を訪ねた際、追悼の歌を詠んでいる。

「住馴(すみなれ)し跡の軒端(のきば)を尋(たずね)きて 雫(しずく)ならねど濡(ぬ)るる袖(そで)かな」

 その後、歳久の首は京へ送られ、一条戻橋で晒されたが、義久はひそかに人を使って首を奪還し、京の寺院で丁重に葬っている。

 やがて秀吉が没すると、義久は歳久の最期の地に、心岳寺(平松神社)を建立した。豊臣政権の反逆者として、表立っては控えねばならなかった弟の弔(とむら)いを、義久はようやく果たしたといえる。

 歳久の家督は、孫の常久が継承し、日置(ひおき)島津氏としてその後も続いた。子孫には、幕末期に活躍し、西郷隆盛からも厚い信頼を寄せられた桂久武(かつらひさたけ)などがいる。

参考:島津修久『島津金吾歳久の自害』1982
   桐野作人『さつま人国誌 戦国・近世編』3巻 2017
   新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』2017

INFORMATION

 作家・簑輪諒さんの小説『化かしもの 戦国謀将奇譚』(文藝春秋)が発売中です。

 上杉謙信の脅威にさらされている越中神保家を助けると約束した武田信玄だったが、援軍は出さぬという。果たして援軍なしに上杉を退ける秘策とは? 腹の探り合いが手に汗握る「川中島を、もう一度」。

 下野国・宇都宮家に仕える若色弥九郎は、先代当主の未亡人・南呂院の警固番に抜擢される。門松奉行という閑職の父を持つ弥九郎にしてみれば、またとない機会。意気揚々とお役目に着く弥九郎だが、この抜擢の本当の目的は……うまい話の裏を描く「宇都宮の尼将軍」。

 長宗我部家は、大量の砂糖の献上を織田家に約束していた。外交僧として必死の思いで砂糖をかき集めた蜷川道標だったが、何者かに砂糖の献上の先を越されてしまう。横槍を入れてきたのはまさかの……すべてが戦略物資になる乱世の厳しさが身に染みる「戦国砂糖合戦」etc.

 気鋭の歴史小説家が放つ、戦国どんでん返し七連発。

化かしもの 戦国謀将奇譚

化かしもの 戦国謀将奇譚

簑輪 諒

文藝春秋

2023年8月25日 発売

「薩摩武者を率いた四兄弟」の命知らずな三男が…豊臣秀吉を激怒させ、首を狙われた末に用いた「最期の策」とは

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文藝出版局をフォロー

関連記事