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 当時は助監督同士で飲んでるところに、「一緒に飲みませんか」って電話で誘うと、女優さんが来ておごってくれた。向こうのほうがお金を持ってるから。愛があったっていうのかな。愛の共和国みたいだなと思ってました。AVになると、女の子はもう金目になっていて、いま思えばAV業界は金でできた帝国だったのかもしれない。

「このまま自分はAV制作を続けるのかな、それが俺の人生なのかな」

――AVの監督をしながら、やっぱり映画を撮りたいという葛藤を抱えていたことが、ご自身の体験を土台にした一般映画デビュー作『スキンレスナイト』(1991)には描かれています。

望月 AVをやってて、いいことも楽しいこともたくさんありましたよ。とくに最初のころは月に10日くらい現場に出てたから、AVの撮影を通じて撮り方を学んだところもあるし。すごく勉強になりました。

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 じゃあなにに葛藤したかというと時間ですよね。このまま自分はAV制作を続けるのかな、それが俺の人生なのかなって。AVにはある種の罠みたいなところがあって、それまで家賃4、5万のアパートに住んでた助監督が、10万のワンルームに引っ越したり、国産の125ccのバイクからドゥカティに乗り換えたり、ちょっとした贅沢ができるようになる。それで気がつくともう10年みたいなことがあるんです。

 俺も7年間かな。そのときふと自分の一生について考えたんですよ。このままでいいのかなって。

――それでAV業界から離れよう、と。

望月 実際には会社が恐喝されたりとか、裏ビデオが流出して警視庁に呼ばれたりとか、いろんなトラブルがあったんです。ちょうどバブルの最後のころで、実家に中途半端な土地があったから、それを担保に多額の借金をしたりして。その借金の一部で、初めての一般映画『スキンレスナイト』を撮りました。

撮影 細田忠/文藝春秋

 結局、バブル崩壊で大損して、会社を畳むことになりましたけど、幸いなことに映画は褒められたんです。中野武蔵野館で細々と公開して、毎日劇場に立ってたら、「あなた、これで海外に行きなさい」と言われて。声をかけてくれたのは映画評論家のドナルド・リチーさんです。しかもリチーさんは川喜多記念映画文化財団を紹介してくれて、川喜多が字幕を付けてくれたおかげで、ベルリン国際映画祭に行くことにもなった。

 AV監督を主人公にした映画を撮りたいと初めに言ったときは、周囲の人間に反対されたんです。でも俺にとってはいちばんリアリティがあったし、お金をかけずに撮れる題材でした。周囲を説得するために当時言ってたのは、電車の中吊り広告を見ろ、AVについて書いてない雑誌はひとつもないだろうって。日本人はいまみんなAVにとらわれてるんだから、これをやらない手はないと言って説得したんですけど、それをダイレクトに理解してくれたのは海外の人だったのかもしれないです。

撮影 細田忠/文藝春秋

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。