戦国の世にあっては、感状は栄誉の象徴であり、再仕官の機会を得るためにも重要であった。だが、たとえどれほど立派な経歴を掲げて仕官したところで、その後の働きが期待外れであれば、家中で立身し、地位を保つことなど出来るはずもない。肝要なのはあくまでも、仕官してからの武功だった。
しかし、今は違う。譜代の重臣ならいざ知らず、身一つで仕官した牢人上がりにとって、新たな武功を立てる機会などなくなった泰平の世にあっては、過去の事績の価値はなによりも重い。そのような時代になったのだと、高松は実感せざるを得なかっただろう。
家名と身代を守るためには、感状だけに縋(すが)るのでは心もとない。もっと確かな証明が欲しい。……斎藤加右衛門の一件から、高松はそのように考え、戸村義国に己の働きの確認を願い出たのではないだろうか。
主張と食い違い
高松と戸村は、直に会うことはなく、互いに書状を送り合って記憶をすり合わせた。そうして、高松が数名の牢人衆と共に、戸村の手勢と槍合わせしたことを確認した。
その一方で、二人の間では、一つの相違点が生まれていた。
「当時の私(高松)は、黒い甲冑に黒羅紗の羽織という装いで、敵と一番に槍合わせをした。これまでの話によれば、その相手は戸村殿だったと思われる。このこと、覚えておられないか」
一番槍、しかも相手が高名な戸村義国となれば、これほどの栄誉はない。高松はなんとしても、この点を証明したいと思っただろう。
戸村の返答は、次のようなものだった。
「確かにあのとき、木村隊に黒具足の武者がいて、私はこの御仁と槍合わせをした。……だが、その黒具足の武者は、右手に槍を、左手に采配を持って下知し、背には白黒段々の旗を差していた」
白黒段々の旗は、木村隊の「番指物(ばんさしもの)」である。番指物は、小姓衆や馬廻衆など特定の役職の者たちが差す、揃いの旗指物だ。
つまり、
「自分が槍合わせをした武者は、高松のような牢人衆ではなく、大将・木村重成の直臣であったのだろう」
と、戸村は言っているのだった。