高松はすでに59歳。生きているうちに、自分の武功を確かな形で記録しておきたいと考えても、おかしくない齢だ。彼にとっては、直に戦場で戦った相手であり、その武名を天下に知られる戸村義国は、証人としてこれ以上ない人物だったのだろう。
そして戸村も、その思いを汲(く)んだのか、顔も知らない相手からの、この唐突な依頼を引き受けた。
「大坂の陣」を戦国最後の戦いとするならば、戸村も高松も、戦乱の時代を知る最後の世代である。敵味方に属して争った間柄とはいえ、同じ時代を生き、同じ戦場を駆けた高松に対して、戸村は同志に近い思いを抱いたのかもしれない。
岡山藩の感状騒ぎ
しかし、実のところ、高松が戸村に『覚書』の確認を依頼したのは、子孫に語り残すことだけが理由ではなかった可能性がある。
というのも、この依頼の前年――正保元年(1644)、岡山藩・池田家で、大坂の陣での武功を巡って、ある騒動が起こった。そして、高松は間接的ながら、この騒動に関わっていたのだ。
この頃、岡山藩では、藩士たちの経歴書(家中書上)の編纂事業が行われていた。その報告過程において、三人の藩士が論争を起こしたのだ。
彼らはいずれも、かつて木村重成隊に属し、豊臣方として大坂の陣を戦った、元大坂牢人であり、論争の種となったのも、大坂の陣の際の武功についてだった。
この論争は、岡山藩の家老たちが詮議することになり、元牢人たちに対しては、大坂の陣当時の感状を提出するように命じられた。
ところが、どうしたわけか、三人のうちの一人――斎藤加右衛門という男は、感状を紛失してしまっていたらしく、慌てて偽物をこしらえて藩当局に提出した。その偽物は、文面もおかしければ花押も違い、なにより発給者の木村重成の名を、間違えて「乗重」と書いているようなお粗末なものであった。
捏造が発覚した斎藤は所領を没収され、永蟄居(終身刑)に処された。
かつて、木村重成隊に属していた高松久重は、斎藤ら三人とは旧知の仲であったため、詮議の過程で岡山藩から、参考証人として問い合わせがあった。
後日、事の顛末を知った高松は、戦慄したのではないか。