心の中で誰かになりきることでしか現れてこない自分というのがおそらく誰の内にもあって、たとえば私は剣道をかつてしていたのだが、当時の全日本チャンピオンの内村良一選手になりきって小手を打ったとき、自分の身体から繰り出されたとは思えない鋭い打突ができて驚いたという体験をしたことがある。
詩や小説を書くときにもこれは感じることで、先行する詩人や小説家になりきって書くと、ふだんの自分が書くものとは全く異なる語彙や文体が現れるということがしばしばある。モデルとなる人物に同一化することによって、普段自分一人ではアクセスできない記憶の抽斗(ひきだし)が開き、そのなかから普段は使わない語彙や文体が引きずり出されてくるのだろう。書き手にもよると思うのだが、私のように確たる自分がないこと自体がアイデンティティになっているような人間にとって、このやり方は1つのテクニックとして有効である。
本書で紹介されているポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアは、これと似た仕組みの全く異なる方法で詩や散文を書いていて、それは「異名者」と呼ばれる別の人物になって著述するという方法である。それだけ聞くと媒体によって異なる筆名を使い分けている人などごまんといるではないかと思うかもしれないが、そうではなくて、ペソアの場合は、性格も出自も全く自分と異なる「異名者」を複数作り出し、それぞれの人物として執筆を行なっているのである。
全く異なる出自、性格の人物が一人の人間のなかに複数いるというのは、本文中にも言及される箇所があるが、解離性の交替人格、つまり多重人格を思わせる。しかし、解離性の交替人格があくまで無意識的な心理機制による病理現象であるのに対して、ペソアのそれは、表現のために行われた意識的なものであり、自分の人格のある側面を拡張させ、一人のペソアとは異なる人間と見做してみることで書ける詩や、書ける文章があったのだろうと想像できる。
本書では、著者による極めて精緻なフェルナンド・ペソアの生涯についての紹介がなされているが、精緻であるにも関わらず読みやすく、良い意味で学術書を読んでいる気に全くならなかった。どちらかといえばペソア自身がペソアのことを書いたかのようにリアルで、読み終わるのが惜しいような、寂しいような、おかしな気持ちにさせられた。エピローグに「自分はペソアの異名者の一人ではないのか、あるいはペソアとは自分の異名者なのではないか、といった妄想にまで至ってしまうのだ」とあって、著者はほとんど無意識にペソアと同一化していたのだろうと連想したし、この本はそのような書き方でしか現出し得ない言葉で最初から最後まで貫かれていると私は思った。
さわだなお/1959年、東京都生まれ。立教大学文学部教授。著書に『新・サルトル講義 未完の思想、実存から倫理へ』他。訳書にJ-P・サルトル『自由への道』全6巻(共訳)、フェルナンド・ペソア『新編 不穏の書、断章』他。
おぎゅうかみゆ/1989年、東京都生まれ。詩人、精神科医。学術書『偽者論』、詩集に『悪意Q47』、『Uncovered Therapy』など。