早稲田大学に入ることができた三崎さんは大学生活を楽しみ始める。バンカラとも言われる早稲田の自由な校風を堪能していた。地方から出てきた分、他人の生き方を否定しない都会の空気もひときわ特別に感じられた。サークルには一応入ったが、仲の良かった友人が辞めてしまったり、あたりの強い先輩がいたりで続かなかった。
「それで、結局サークルは辞めてアルバイトに打ち込むことにしました。西武ドームのサービススタッフで、チケットのもぎりをやったり、ファウルボールの笛を吹く係をしたりしていました。ヘマをやって怒られたこともありましたが、自分には合っていたバイトで長く続きました。なので、大学時代に頑張っていたことはこのバイトになります。そのときのバイト仲間にはまだ交流が続いている人もいますし、良い経験になりました」
障害者手帳が取得できない
三崎さんがつまずいたのは就職してからだった。新卒で入った会社で配属されたのは営業職だったが、たくさんある商品の内容から価格、管理の仕方など、覚えなければならないことがあまりに多かった。数字が苦手なため、商品の価格の計算が全くできなかった。マルチタスクが求められる職場でもあり、電話をしながら価格を折衝し、その内容をパソコンに打ち込むことは実に困難だった。やがて、自分は周りの足を引っ張っているのではないかと感じ始めた。
「エクセルが苦手で、学生時代もエクセルやワードの講義は避けていたくらいなのでパソコンが全然使えなかったんです。『自分で勉強しなよ』と言われたこともあったのですが、当時住んでいたのが社員寮だったので、同期たちの目が気になってパソコンスクールに通うのも情けなく感じてしまって……」
同期と比較しても学歴ではむしろ優秀であったにもかかわらず、仕事の覚えが悪く、思い悩むこともあった。そんな折に、ネットニュースで「発達障害」の存在を知ることとなる。ADHDの診断が下り、会社は休職することとなった。
「今は障害者手帳を取得して障害者雇用で働いているのですが、当時、障害者手帳を取ろうとしたら、医師の診断書の書き方があまり良くなくて取れなかったんです。発達障害支援センターにも行って『なんとか手帳を取れる方法はありませんか?』と相談したところ、保健所や保健センターの管轄を変えれば取れるかもしれないとのことで、休職していた会社は辞めることにして別の地域に引っ越しました」
発達障害や精神疾患で精神障害者保健福祉手帳を取得する場合、医師の診断書が必要になる。そこには例えば「通院はできるか」「自分で適切な食事ができるか」「金銭管理はできるか」などの項目に対して「できる」「援助があればできる」「できない」といった欄があり、それに対して医師が返答を記入する。
ネットスラングで「精神科ガチャ」というものがある。診てくれる精神科医のアタリとハズレがあり、それによって診断書の書き方も変わってくるということだ。三崎さんの場合、診断書の項目のほとんどに「できる」と記されてしまっていたため手帳が取れなかった可能性があるとのことだった。また、診断書の結果から手帳を交付するか否かは行政の判断によって左右される。
三崎さんは引っ越したのち、派遣のアルバイトをしながら10カ月ほどフリーター生活を送った。そしてその地で無事、精神障害者保健福祉手帳を取得できた。25歳のことだった。