「テレビでは見られない深い世界」があった
――ジョビジョバを通っているからこそ、児島さん率いるK-PROは幅広いお笑いライブ制作視点なんだなと合点がいきました(笑)。高校3年生のときに、中野で開催されたお笑いライブを手伝います。この体験が、児島さんの原点なんですよね?
児島 ですね。文通仲間に誘われて、軽い気持ちで参加したのですが、驚きというか衝撃の世界でした。誰一人テレビで見たことのある芸人は出ていない……正直、「テレビ出ていないのに何で芸人って名乗っているんだろう?」って思ってしまって。
でも、これから自分たちは売れるんだって自信に満ちあふれている人や、リアルに楽屋でケンカをしているコンビなどを見て、「テレビでは見られない、こんな深い世界があるんだ」っていろいろ考えちゃったんですね。こういう世界があることを私自身も知らなきゃいけないし、伝えていかないといけないなって。
――ブーム化したことで、若手お笑いには黄色い声援が飛ぶような状況だったと思います。分析してしまうくらい“ガチ”のお笑いファンである児島さんの目には、どのように映っていたのでしょうか?
児島 芸人さんの持つ魅力やパワーはこんなにも人を惹きつけることができるんだな、と。純粋に「すごい」と思いました。「私はそういうファンじゃないから」みたいなポーズもできましたが、そっち側に乗れない自分がむしろ恥ずかしいというか。芸人さんって、アイドルと同じくらい魅力も持っている人たちだと思うんですよね。
「K-PRO」を設立したわけ
――裏方をしながら、児島さん自身も芸人として舞台に立っていた、という話もご著書に書いてありました。しかし「自分でライブを主催したい」という思いから、2004年にわずか3人のスタッフでK-PROを立ち上げます。
児島 吉本さんが東京に進出してきたということもあって、当時は他事務所さんのライブは月に1回しかないような状況でした。出演できる芸人はオーディションを勝ち抜いた人だけなので限られます。その一つ前段階のポジションになるようなライブをやりたいと話していました。
その頃は、お笑いをやる劇場も渋谷の「シアターD」と、中野の「Studio twl」くらいしかなくて。今でこそ、小さな劇場を含めると都内に30~40か所くらいあると思うのですが、そのときはお笑いをやる劇場が本当に少なかったんですね。
――立ち上げたはいいものの、まったく無名の制作集団です。たくさんハードルがあったと思います。
児島 一番苦労したのは、芸人さんを他の事務所から借りる交渉でしたね(苦笑)。ラ・ママ(新人コント大会)の渡辺正行リーダーをはじめ、実績があってお笑いに詳しい方々がお笑いライブを主催・企画していたので、プロダクションに連絡しても「何がしたいの?」と思われてしまって。それこそ、芸人さんと仲良くなりたい女性ファンがやっているんじゃないのって思われたことも。信用を作り上げていくことが、どれだけ大切なことなのか痛感しました。