全域が埋立地で構成されている「飛島村」
もともと、飛島村は工業地帯だけでなく農村地帯を含めて全域が埋立地から構成されている。ただ、農村地帯と工業地帯では、埋立された時期が大きく違っている。農村地帯の埋立は、さかのぼること約300年。17世紀末、江戸時代は元禄年間にはじまった。
江戸時代は、日本の農業生産高が飛躍的に伸びた時代として知られている。江戸時代初期の全国の石高は1800万石程度だったが、終わり頃には3000万石にまで増えていた。生産技術が向上して安定した収穫量が確保できるようになったのも理由のひとつだが、もうひとつ大きい理由は「新田開発」だ。
新田開発に成功すれば、耕す農民たちも潤うしお殿様も潤う。だから幕府から諸藩まで、こぞって新田開発にいそしんだ。新田開発は荒れ地を耕して切り開いたり、湖や潟、遠浅の海を埋め立てて行われた。そのひとつが、いまの飛島村、というわけだ。
最初に開拓されたのは大宝新田と呼ばれる現在の村域ではいちばん西端の一角だった。その後、1726年には八島新田、1801年には飛島新田・服岡新田、1802年に重宝新田、1826年に政成新田と、次々に開拓が進む。明治に入り、1889年に飛島・政成・服岡が合併して飛島村が成立し、1906年には大宝・八島・重宝が加わって現在の飛島村に続いてきた。
町を歩くとなぜかやたらと寺社が…
飛島村の田園地帯を歩くと、住宅の合間合間にやたらとお寺や神社があるのが目に留まる。日本にはどの町にも寺社があるものだが、それにしても多い。
立派な神社だと思っても、5分と歩けばまた神社。その間には立派なお寺も鎮座する。メインストリートに近い神明社には、飛島新田の開拓に功を成した津金文左衛門の像が建つ。
文左衛門さんは尾張藩の奉行として熱田などでも新田開発に従事している。このときには瀬戸から赴いていた陶工を重用して中国南京焼の技法を研究させた。愛知県は窯業が盛んだが、その礎を築いたのも文左衛門さん、というわけだ。
いずれにしても、すでに江戸時代にはいまの飛島村の農村地帯としての形は完成していた。明治、大正、そして昭和と、名古屋港周辺が工業地帯へと変貌してゆくなかでも、変わらずに農村地帯であり続けていた。