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厳しい財政の村が「日本一の金持ち村」になるまで

 もとより木曽三川の河口付近に広がるゼロメートル地帯の村。1959年の伊勢湾台風では極めて甚大な被害を受けている。このときには、2か月間も村内から水が引かなかったという。純粋な農村地帯の飛島村は、その頃まで財政的にも極めて厳しい状況にあったようだ。

 ところが、状況が変わったのは伊勢湾台風以後。1963年に名四国道が開通し、沖合には貯木場を備えた木材港が誕生。次いでさまざまな工場が新たな埋立地にできて、急速に工業都市としての一面を強めていったのだ。

 臨海部の工業地帯が正式に飛島村に含まれたのは1972年のこと。これによって現在の飛島村が完成。臨海部の工場から莫大な固定資産税をはじめとする税収入が得られるようになり、“金持ち村”になったのである。

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 とはいえ、本質的には農村であるということは昔から変わっていない。農村地帯が工業地帯に変貌して潤ったのではなく、新しく埋め立てられた沖合に工業地帯が生まれただけのことだ。だから、江戸時代以来の開拓地という面影はいまもしっかりと残り、農村と工業地帯の両立という、実に不思議な村になっている。これが実現したのも、名古屋という大都市のすぐ近くだから、なのだろう。

 近鉄蟹江駅から農村地帯を抜けて走る飛島公共交通バスの終点、公民館分館バス停。そこは工業地帯の入り口である。そして、工業地帯の中をぐるりと走り、伊勢湾岸自動車道の名港西大橋を通るもうひとつのアクセスバス路線との結節点になっている。

 

 このバスは、橋を渡って名古屋市内に入ると、レゴランドの脇を抜けてあおなみ線の稲永駅、そして名古屋市営地下鉄名港線の名古屋港駅までを結ぶ。工業地帯で働く人たちの通勤の足、というわけだ。

 近鉄蟹江から農村地帯を走るルートと、名古屋港から工業地帯に向かうルート。飛島村は、ふたつの充実した路線バスによって、村外と結ばれている。それを乗り継いで、ふたつの性質を持つ大都市近郊の村を旅する。最初は村歩きなど過酷だと思っていたが、あんがい悪くないものである。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。