「母メリーは、私が従順な時はとても優しいのですが、私が少しでも彼女と違う意見を言うと気が狂ったように怒り、叩き潰すようなことを平気でする人でした」
10月2日、ジャニーズ事務所は会見を開きましたが、藤島ジュリー景子元社長は姿を見せず、ジャニーズアイランドの井ノ原快彦社長が、ジュリー氏の手紙を代読しました。手紙のなかで、藤島氏は母・メリー氏との確執についても明かしました。
「20代の時から、私は時々過呼吸になり倒れてしまうようになりました。当時病名はなかったのですが、今ではパニック障害と診断されています」
「心療内科の先生に『メリーさんはライオンであなたは縞馬だから、パニック障害を起こさないようにするには、この状態から、逃げるしかない』と言われ、自分で小さな会社を立ち上げ、そこに慕ってくれるグループが何組が集まり、メリー、ジャニーとは全く関わることなく、長年仕事をしておりました」
恐怖で芸能界を牛耳ってきたメリー氏の言動は、娘の精神に影響を及ぼしていたようです。小誌デスクがメリー氏の“怒り"の現場をありのままに記した「『ジャニーズ女帝』メリーさんに叱られた」の一部を再公開します(「文藝春秋」2023年1月号より)。
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「私はジュリーを残します。自分の子だから」
“ジャニーズの女帝”こと、メリー喜多川氏が8月14日、93年の人生に幕を降ろした。本名「メリー・泰子・喜多川・藤島」。最終的な肩書きはジャニーズ事務所の「名誉会長」だった。実弟のジャニー喜多川元社長(享年87)が他界して2年。これで同社は一代で会社を「日本最大の芸能事務所」に成長させた創業者姉弟を失った。
「瞬間湯沸かし器型の感情の激しい人だが、実に女である」
メリー氏の夫であった作家の藤島泰輔氏(故人)は妻を評してこう語ったというが、言い得て妙というべきだろう。彼女はまさに“怒れる女帝”だった。2015年当時は「週刊文春」のデスクだった筆者(現「文藝春秋」デスク・渡邉庸三)が、氏の謦咳に接したのは3度きりだが、対面時間は合計約10時間に及ぶ。その間メリー氏は誇張でなくずっと怒り続けていた。記者側の発言は計10分にも満たなかったのではないか。
ジャニーズのタブーに切り込んだ
なぜ我々はメリー氏の逆鱗に触れたのか。それは我々が取材の中で、アイドル帝国・ジャニーズのタブーに切り込んだからだ。
まずは、私が身を以て体験したメリー喜多川という傑物について、しっかり記録しておきたい。今となってはますます貴重となった、6年半前に行われたメリー氏への「5時間インタビュー」を振り返る。
15年1月13日正午、私は2名の記者とともに乃木坂の旧ジャニーズ本社を訪れた。19年1月に嵐の活動休止会見が行われた現社屋は地上6階地下3階の要塞のような巨大ビルだが、当時の社屋は3階建てで「J&A(Johnny & Associates)」のロゴが入った青いキャノピーが設えられたエントランスや、白壁から突き出した半円の出窓が可憐な、こぢんまりとした建物だった。
「君たち、メリーさんに会えるなんてラッキーだよぉ」
受付を済ませた我々3人が2階の応接室で待機していると、先方の顧問弁護士である矢田次男氏が入ってきて、やけに明るい調子でこちらに声を掛ける。“芸能界の守護神”として知られる有名弁護士だ。
応接室には1台の電話機と内線電話表があった。筆者はそれを見て、さっそく驚かされた。
〈メリー様〉
内線表の1番上にはこう書かれていたのだ。これから相まみえるのはこの絶対的序列のトップに君臨する“女帝”なのだと改めて認識した。
われわれ取材班がメリー氏に聞きたかったこととは一体何か。それは「事務所の後継者問題について、メリー氏はどう考えているのか」。本質的にこの1問に尽きる。
ジャニーズ事務所の2大派閥「ジュリー派」と「飯島派」
当時、ジャニーズ事務所の中では「ジュリー派」と「飯島派」という2大派閥が角逐し、その派閥トップのどちらかがジャニー社長の後継者に選ばれるのだろうという見立てがマスコミ業界の常識だった。その2大派閥の領袖は、メリー氏の長女である藤島ジュリー景子氏と、実力派マネジャーの飯島三智氏であった。ジュリー氏は嵐やTOKIO、関ジャニ∞といった主流派を担当。一方の飯島氏はSMAP。当初は“ジャニーズの落ちこぼれ”と言われた彼らの名声を高からしめ、国民的スターに育てた赫々たる功績があった。
「次の社長は飯島しかいない」
彼女の手腕を買っていたジャニー氏が周囲にそう語っていたという証言もあるように、飯島氏の業界での存在感は大きくなる一方だった。特にテレビ局関係者にとっては下にも置かない存在となっていた。各局は両派閥のタレントをキャスティングするため、別々のプロデューサーがそれぞれの派閥に対応していた。嵐とSMAPが共演する機会がほとんど無いことも派閥問題を映し出していると言われていた。
インタビューは20畳はあろうかという大きな会議室で行われた。向かって右側に白波瀬傑専務と男性スタッフ、矢田氏ら複数の顧問弁護士が同席。我々は左側に座った。
10分後に現れたメリー氏は会議室後方から入って来ると、弁護士の後ろを通り、悠揚迫らぬ態度で無言のまま“お誕生日席”に座った。キラキラと輝く宝石がちりばめられたトレードマークの眼鏡を掛けている。
唐突に始まった5時間のお説教
「それでね、その前に私一番聞きたいのは、9月ですよね、文春さんと裁判が終わったのは……」
初めましての挨拶もそこそこに、5時間にわたる長いお説教は唐突に始まった。弁舌は一瀉千里、声は張りがあって滑舌よく、眼光は鋭い。メリー氏は80代後半とは思えないほど矍鑠(かくしゃく)としていた。
メリー氏の演説が始まると、事務所スタッフも弁護士も強張った表情のまま虚空を見つめて一言も発さなくなった。広い会議室に響き渡るのはメリー氏の声だけだ。
記事ではコンパクトにまとめているが、本筋とは無関係なこんな“脱線”が何度も繰り返された。
メリー 文藝春秋という看板を背負ってやってたらね、もっといいことを書いてくだすったら文春の社長にお話しして「やっといい人がわかりました」と私は言いたいけれども。
――はい。私はデスクをやり始めて3年9カ月なんですけれど……。
メリー 嘘! うちだったらまだデビューしてませんよ!
「ちょっと飯島呼んでくれない」
そうしていよいよ“派閥問題”に話題が差し掛かった時、メリー氏のテンションは最高潮に達した。
「ジュリー以外に(誰かが)派閥を作っているという話は耳に入っていません。もし、うちの事務所に派閥があるなら、それは私の管理不足です。事実なら許せないことですし、あなた方にそう思わせたとしたら、飯島を注意します。今日、(飯島氏を)辞めさせますよ。仕事の大事なことって、そういうことだから」
メリー氏は思い立ったように男性スタッフを手招きし、記者も予想外の行動に出たのだった。
「ちょっと飯島呼んでくれない。いま飯島呼んで。どこにいるのか知らない?」
当の飯島氏を呼んで、直接説明させるというのだ。会議室全体に緊張が走ったのは誰の目にも明らかだ。これが「公開粛清」の幕開けだった。
俄に騒然とするスタッフ。同席していた事務所の男性スタッフが飯島氏に急遽連絡を取り始めた。飯島氏の都合などお構いなしと言わんばかりにメリー氏は平然と話し続ける。