「川村屋は、誰かの人生にとって、ただのそば屋以上のかけがえのない存在になっていたことを改めて実感しました。そんな店をおしまいにしていいのだろうかという声が聞こえてきました。それから、主人の雄太郎に相談したところ、そこまで強い想いがあるなら挑戦してみよう。自分の過去の経験を最大限活かして全力でサポートする。お父さんに継がせてほしいと相談に行こうということになっていったんです」
それを聞いて、6代目は「大変だからやめた方がいい」とすぐに返事したという。しかし愛子さんと雄太郎さんは「川村屋を継いで未来に残したい」という想いを必死に伝えたという。すると、6代目も愛子さんの強い想いを少しずつ受け入れはじめてくれて、再開に向けて始動することに合意してくれたという。
再オープンで嬉しかったこと、苦労したこと
そして9月1日、再開日を迎えた。結果的に1100人ものお客さんが駆けつけて、慣れ親しんだ川村屋の味が再現されていることを大いに喜んだわけである。
「再開から1か月経ちましたが、お客さんの熱い想いが伝わって来て、泣きそうになってしまいます」と愛子さんはいう。
再オープン後で一番苦労されたことを愛子さんに訊いてみると、なかなか納得できる回答が返ってきた。「今まで、デスクワークだったので、立ち仕事というのが意外とキツイことがすぐにわかりました(笑)。まあ慣れると思いますが。それとスタッフのシフト管理がすごく重要だとわかりました。いかに連携するか。それとやはり、お客さんがすぐにわかるつゆの味の大切さですね」と愛子さんは率直に話す。そして、「味のコンセプトは変えずいかに効率的に働くかを、主人が持つIT技術を活用して今後検討していきたい」と愛子さんは熱く話す。
「川村屋」と桜木町の歴史
さて最後に少し俯瞰したところから「川村屋」と横浜や桜木町の歴史をみて行こうと思う。「川村屋」の歴史は、明治4(1871)年、斎藤くら(お倉)が駒形町(現真砂町)に料亭富貴楼を開業することから始まる。富貴楼には当時の有名政治家が集結していた。明治5(1872)年 横浜駅(現桜木町)が開業した。明治中期の頃、駅の開業が相次ぎ、弁当やにぎりめし、お茶などの物販のニーズが高まっていった。明治31(1898)年には大船駅で大船軒が営業を開始し、その後日本で最初の駅弁サンドウィッチを発売して大ブームを起こしていた。
そうした状況下、お倉は伊藤博文のチカラを借りて養女・渡井つるの名義で営業許可を得て、明治33(1900)年4月横浜駅(現桜木町駅)に洋食レストラン「川村屋」を開業した。ここが「川村屋」の原点である。
しかし、関東大震災で駅舎は焼失。太平洋戦争を経て戦後の高度経済成長期に至るまで不遇の時代が続いていた。よく廃業しなかったものである。
昭和2(1927)年~昭和19(1944)年は渡井政次が2代目、昭和19年~昭和23(1948)年は渡井六郎が3代目、そして昭和23年~昭和54(1979)年は小野瀬幸広が4代目となった。
4代目の昭和44(1969)年、「川村屋」はそばの販売を開始した。その前までは軽食以外の料理も提供するレストランとして駅構内で営業していた。当時駅そばが人気となり「川村屋」も駅そばビジネスに舵を切ったわけである。私が「川村屋」に初めて行ったのはその6年後の昭和50(1975)年頃だと記憶している。