そばも閉店前と同じ大手製麺の茹で麺だがコシもある。湯通しの加減が絶妙なのだろう。天ぷらはシンプルだがつゆに浸していくうちに徐々にほぐれていく。それをかじる。揚げ置き天ぷらの美学といってもいい。
昔のことを思い出しながら食べていると、外テーブルも一気に混んできた。店内も程よい賑わいをみせている。
「天ぷらそば」を食べ終えた頃、6代目笠原成元さん(70歳)と7代目となる次女の加々本愛子さん(31歳)がにこやかに迎えてくれた。
そばの味の向上を図った6代目
6代目笠原成元さんは店への愛情を熱く語る。ご存じの方も多いと思うが、6代目が「川村屋」の廃業の危機を救いそばの味をグンと向上させた。「川村屋」に黄金期があるとするならば、初代の洋食レストランをスタートした草創期と、そばの味の向上を図った6代目の奮闘期だと考えている(歴史については後述)。
「とにかくウチはベテランスタッフに支えられてきました。秘伝のつゆも妥協することなく味の研究を重ねてきました」と笠原さんはいう。立ち食いそばは手頃な値段で提供する。しかも駅そばであれば年齢性別を問わず幅広い層が利用する。華美なものではウケないし、提供に時間がかかるのもよくない。かといって味が落ちればすぐに察知されて足が遠のく。そういう意味でバランスのとれた立ち食いそばの味を見極めるのは至難の業ともいえる。
「お客様がおいしい・うまいといってくれるかがバロメーターなんです。上司(ボス)が部下においしいから川村屋にきているんだと言ってもらえるような店を目指しました。そうした思いは7代目にしっかりと引き継いでいます」
「うまいつゆ」を目指して改革実行
笠原さんは1988年から川村屋の仕事に携わるようになったという。35歳の時である。それまでは大手商社でバリバリに働いていた。しかし、ちょう度その頃、横浜博覧会の開催に伴い駅舎は移転し新駅になることが決まった。それに伴い川村屋に廃業の危機が訪れる。その対応に笠原さんは奔走することになった。JRの各部署と精力的かつ断続的にほぼ1人で交渉を行った。そして、横浜博覧会の開催期間は50平方メートルの店なら継続してもよいという成果をようやく勝ち取ったのだ。その結果、「川村屋」はレストランをやめ立ち食いそばうどん専業(一部ミルクスタンドや青汁は継続)となったという。
そして、旧店舗が取り壊されて次の店舗に移る間の1か月間で、笠原さんはそば専業であるためには何が必要かを製麺屋、出汁屋、醤油メーカー、総菜屋を集めて今後の味のコンセプトを作り上げたという。それまで勤めていたお母さんやお姉さんに協力してもらい、「つゆの香りがふわっと立つような味、1つの食事として満足してもらえる味を決めていった」という。つまり「うまいつゆの店」にすることに注力したわけである。