殺到するマスコミに彼女は「物語」を語り続けた。カイロ大学首席卒業、裕福な家庭に生まれ育った芦屋令嬢、大きな眼をした外国語に堪能な才女。それが彼女が世間に与えたい自己イメージなのだった。
時には容赦ない攻撃も
階段を一段上がったという高揚感があったのだろう。知名度と立場と権力を得た彼女は、その力を自制しようとはせず、むしろ誇示し、行使した。自分にとって都合の悪い人物、自分に歯向かった人間、気に入らない相手に対して、容赦なく。
まず、小池の比例順位に納得がいかず、出馬を取りやめたテニスプレーヤーの佐藤直子が標的にされた。『週刊ポスト』の連載エッセイ「ミニスカートの国会報告」第1回目のタイトルは、「佐藤直子さん、どうぞお健やかに」。佐藤をここぞとばかりに、こき下ろしている。
「もう遠い過去の話ですがその意味で、若い人にも知られた佐藤直子さんが出馬を辞退したことは残念でした。候補者のバラエティが増えれば、それだけもっといろんなことができたかもしれないからです。私自身は一度しかお会いしたことはなく、辞退の理由はわかりません。聞くところによれば、私たちと基本的感覚が違ったようです。PKOとPKFの区別もよくご存知なかったようで」(『週刊ポスト』1992年8月14日号)
あからさまに小馬鹿にし、からかった。
意味深なエッセイ
高みに立ち見下したい、見返したいという思いがみなぎっていたのか。『週刊朝日』の連載エッセイには、こんな一文を寄せている。
「ちなみに議員になってからというもの、たくさんのはげましのお手紙に交じって、かつてのボーイフレンドからの突然の近況報告や、父の事業失敗で煽りをくらった人から恨みの手紙などまで届くようになった。ボーイフレンドは、私が『芦屋の社長令嬢』ではなくなったと告げたとたん、雲隠れした人。『所詮、そんな人だったのよ』と友人たちは慰めてくれたものだ。諸行無常」(『週刊朝日』1992年12月4日号)
父親に騙された人に、すまないと思うのでもなく、ボーイフレンドからの連絡になつかしさを覚えるのでもない。
ここに書かれているボーイフレンドとは、カイロから小池が熱心に手紙を書き送っていた川村誠(仮名)であろう。だが、彼が去っていったのは、小池が「芦屋の社長令嬢」ではなくなったからなのか。彼女が「芦屋の社長令嬢」だったことはあるのか。わざわざ活字にした理由は、やはり、自分を見下した相手への復讐だろうか。
「父の事業失敗で煽りをくらった人から恨みの手紙」は、小池事務所にいた関係者によれば実際にはかなり深刻なものだったという。彼女のもとには、以前から勇二郎に騙された人々からの、恨みの手紙が届いていたが、国会議員になって増した。小池の口調は軽いが、金を踏み倒された人たちの恨みは深いのである。そのせいで家や仕事を失った、中には自殺を考えさせられるほどの損害を受けた被害者もいたといわれる。だが、そうした抗議の手紙を目にしても小池の心は痛まないのか、軽い調子でエッセイのネタにされてしまうのだった。