1ページ目から読む
4/6ページ目

日光街道の中でもひときわ規模の大きな宿場町だった「小山」

 小山はもともと旧日光街道の宿場町として栄えた町だ。もともとは小山氏が城を構える城下町だったが、豊臣秀吉による小田原征伐に際して小山氏が滅亡。徳川家康家臣の本多正純があとを受け、日光東照宮の造営のための資材の経由地点となった(のちに本多正純は宇都宮に本拠を移し、小山の城は廃城になっている)。

 
 

 街道筋であると同時に、すぐ西側を思川(利根川水系、渡良瀬川支流)が流れていたから、水運と陸運の結節地として便利だったのだろう。さらに小山は、足利・佐野から結城方面を結ぶ街道が東西に通っていて、その分岐点にもなっていた。

 いまも鉄道では新幹線・宇都宮線・両毛線・水戸線の交わる要衝だが、昔も小山は交通の要衝だったのである。そんなわけで、江戸時代後期には旅籠屋が73軒も連なる日光街道の中でもひときわ規模の大きな宿場町になっていた。

ADVERTISEMENT

 思川は、駅前の通りから日光街道を渡ってさらに西に歩いて行くと見えてくる。日光街道の後継にあたる国道4号を渡るとすぐ、「祗園城址」と呼ばれる古の城跡が橋のたもとに見えてきて、その脇を流れるのが思川だ。

「小山」と“関ケ原の戦いのエピローグ”

 

 思川のすぐ近く、国道4号沿いには小山市役所も立派な市庁舎を構えている。その一角には、「小山評定跡」と書かれた小さな碑。小山評定というのは、関ケ原の戦いのエピローグとしてきまって登場するエピソードである。

 

 秀吉亡き後に徳川家康が会津の上杉景勝討伐に向かったところ、石田三成らの挙兵の一報を聞く。それを受けて、従軍の諸大名を集めて上杉討伐を継続するか、それとも西に転じて三成と戦うのかを話し合った。これを小山評定という。小山は、その舞台になった場所、というわけだ。