1991年に第1作が発売され、競馬ゲームの大ブームを巻き起こしたダビスタを作った、ゲームデザイナーの薗部博之氏。
薗部さんがダビスタの制作に取り掛かった時、すでにアスキーを退社し、たった1人だった。しかし、そこから数年で「長者番付」に名前がのることになる。
ゲームクリエイターの収入事情はどんなものだったのだろうか。
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――『ダビスタ』が発売された時には、すでにアスキーを退社して独立していたんですよね。
薗部 そうですね。やっぱり自分でゲームを作る仕事をメインにしたくて、ファミコン版の『ベストプレー』がそこそこ売れたのもあって「イケるかな」と。カミさんが産休で実家に帰っているあいだに、相談もせず会社を辞めちゃったんですよ。
――すごいことをしますね(笑)。収入的な保証はあったんですか?
薗部 行き当たりばったりですけど、アスキーが良くしてくれたので助かりました。辞める時に「これでゲームつくれよ」ってパソコンを1台買ってくれて、次に出すゲームの印税の前払いという形で毎月固定給ももらっていました。もらったパソコンで家の仕事部屋で一日じゅう『ダビスタ』を作っていましたけど、「これが売れなかったらどうなるんだろう」という不安はずっとあって、寝ているあいだに変な寝汗をかくこともありました。
――無断で会社をやめたと思ったら家でずっと働いている薗部さんに奥様はどんな反応だったんですか?
薗部 妻も割と「なんとかなるでしょ」というタイプだったのはありがたかったです。でも若い年で結婚して子どもができて、それなのに僕は全然子どもにかまわずゲームを作っていて、うちの子たちは母子家庭で育ったようなもの。いま思えば、ひどい親でした。
報酬は「最初はソフト1本あたりちょうど1ドルくらい」
――実際のところ、「ゲームクリエイター」の収入って、どういうしくみなんでしょう?
薗部 アスキーはもとが出版社だからか、印税契約でした。売上の何%をもらう、というイメージです。パソコンのゲームをつくったときは、8%くらいもらっていたんじゃないかな?
――ゲームは単価も高いですしすごい額になりそうです。ファミコンソフトも同じですか?
薗部 さすがにそこまでの数字ではなかったです。そもそも出荷数が段違いですから。最初はソフト1本あたりちょうど1ドル(1991年は約134円)くらいだったというのが当時の記憶です。ほかの方はわからないので、あくまで僕のケースですけど。
――それでも数万本売れたとなるとかなりの額になりそうです。
薗部 独立して最初に出したのは『ベストプレー』の続編でしたけど、サラリーマンじゃ考えられない1000万単位のお金が入ったんで、それはもう有頂天にはなりましたよね。「よし、引っ越そうか!」みたいな(笑)。