JRA(日本中央競馬会)は11年連続で売上を伸ばし、2022年には3兆円を大きく超えた。
セリ市で取引される競走馬の値段も右肩上がりだ。この巨大な「競馬ブーム」を作った1つに、競走馬を育成するシミュレーションゲーム『ダービースタリオン』、通称「ダビスタ」シリーズがある。
1991年に第1作が発売され、競馬ゲームの大ブームを巻き起こしたダビスタは、ほとんど1人の手で作られた。作ったのは、ゲームクリエイターの薗部博之氏。日本人の競馬愛を育てた『ダビスタ』はどのように生まれたのか、スピード、スタミナ、勝負根性、気性というパラメータはどのように誕生したのか。
そして現在の競馬ブーム、ダビスタ以降に増えた競馬ゲームの数々をどのように見ているのか、お話を伺った。
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――薗部さんが最初のダビスタを作っていたのは20代の頃ですよね。それ以前から競馬のゲームを作りたかったのですか?
薗部 僕は1961年生まれで小さい頃はテレビゲームなんてもちろんなかったので、小学生の頃から自分で紙のゲームをつくって遊んでいました。紙製の野球盤を作ってペナントレースを開催してスコアを記録し、打率を手で計算して「首位打者は誰だ」とかやってたんです。電卓が発売されたとき狂喜乱舞しましたよ、「これで打率計算が楽になる!」って(笑)。
初めてパソコンを買って半年でゲーム制作の道に
――実は野球の方が好きだった。
薗部 そうですね。パソコンが出はじめたときには、これで野球ゲームをつくれないかと思うようになりました。大学3年生だった1982年の10月にパソコンを自分で買って、その2カ月後にエニックス(現スクウェア・エニックス)の「第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」の締め切りがあって、そこを目標にプログラムを独学で勉強し始めました。
――『ドラゴンクエスト』シリーズを生み出す堀井雄二さんや中村光一さんが賞を受賞したコンテストですよね。
薗部 なんですけど、僕はパソコンを買って2カ月ではさすがに間に合いませんでした(笑)。そうしたらアスキーが新創刊したパソコン雑誌「ログイン」がゲームプログラムを募集していたので、「じゃあそこに応募しよう」と。創刊直後で応募も少なかったんでしょう。すぐ採用されて、その伝手で誘われてアスキーに入ることになりました。
――パソコンを買って半年ほどでゲームの道を進むことに決まったんですね。アスキーではどんな風にゲームを作っていたんですか?
薗部 アスキーはベースが出版社なので、ゲーム開発の部署はなかったんです。僕が配属されたのも第二出版の編集部でした。僕の仕事は大学生のアルバイトにゲーム制作を発注すること。でも自分でも作りたい気持ちがあったので、仕事が終わったら家で自分で作っていたんですね。自分で自分に発注する、みたいなことです。
――アスキーは『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』なども出していたので、自社でバリバリ制作しているイメージがありました。