本書のタイトルが意味するものは、ガンディーの人生の真実とは何だったのか、というのとは少し違う。そうした側面がないのではもちろんない。最新の研究成果のもと、私のような素人の先入見や誤解を正すような事実が本書には無数に示されている。しかし真に重要なのは、ガンディーの真実とは何か、というのみならず、ガンディーの人生にとって真実とは何であり続けたのか、という問いである。
ガンディーといえば非暴力である。しかしそれはたんなる無抵抗(受動的抵抗)ではなかった。不服従というだけでもない。そもそもガンディーは暴力を必ずしも全否定していなかった。臆病よりは暴力を選べと助言した。生涯に四度従軍もした。非暴力はある種の「力」と矛盾しない。重要なのは非暴力とともに、あるいはその手前にあるものである。それは何か。サッティヤーグラハ――真実(サッティヤ)にしがみつくこと(アーグラハ)。ガンディーにとって非暴力とは「ある人間が真実に正しく到達しているか/向かっているかどうかを示す唯一自明の基準」だったのである。
したがってガンディーにおける非暴力の実践とは、反英独立運動や塩の行進などの政治行動の場面だけに限られてはいなかった。著者はそう論じる。日常生活の全般において真実が目指されねばならない。真に非暴力的な食のレシピとは何か。非暴力的に生産された最良の衣服とは。暴力を一切含まない性的な関係とは。それらの日常実践の中で執拗に真実が問われていった。この世界の巨大な差別や暴力を構造的に成り立たせるものは、何よりも一般の人々の日常的な無関心であり諦めなのだ、というガンディーの確信ともそれらは関わっていただろう。
言行一致的な非暴力をどこまでも求めたガンディーの人生は、超人的なものにみえる。しかし人間はこんな過酷さに耐えられるのか。本書の終盤で著者は、ガンディーの真理への意志が“まさにそれゆえに”、家族や虐殺の犠牲者たちの痛苦に時に無頓着だったという事実を、容赦なく突き付ける。そこには「『暴力的な』自己中心性」すらあった、と。それを読んで胸を撫で下ろしたり、冷笑的な気持ちになる読者もいるはずだ。やはりこうした生き方は不可能なばかりか、人間としてどこか間違っているのだ……と。しかしそれもまた迂闊な単純化だろう。手放しの聖人視がそうであるように。著者はガンディーの実践が最後まで不完全だったこと、本人がそれに自覚的だったことを何度も確認している。ならば重要なのは、歴史の中のガンディーの批判的継承者たちのように、「非暴力思想に対する解釈の絶えざる修正と変容」を試みることだ。その限りで、あなた自身にとって非暴力とは何か。真実にしがみついて生きるとはどういうことか。問いは依然そこにある。
はざまえいじろう/1984年、イタリア生まれ。滋賀県立大学人間文化学部講師、マックス・プランク研究所宗教・民族多様性研究シニア・リサーチ・フェロー。専門は南アジア地域研究。『ガーンディーの性とナショナリズム』で日本南アジア学会賞受賞。
すぎたしゅんすけ/1975年、神奈川県生まれ。批評家。著書に『橋川文三とその浪曼』『男が男を解放するために』などがある。