2022年、この世を去った稀代のプロレスラー・アントニオ猪木。プロレスというジャンルに市民権を与えようと奮闘してきた猪木の言動は、一介のスポーツ選手のそれとは違う、謎をまとっていた。
ここでは、“時事芸人”であり、プロレスファンでもあるプチ鹿島さんの著作『教養としてのアントニオ猪木』(双葉社)より一部を抜粋。1987年、マサ斎藤を指名して行った「巌流島の決闘」、その背景にあった意外なストーリーとは――。(全2回の2回目/前編を読む)
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だから猪木は巌流島でよだれまみれでマサさんを殴った
《巌流島の決闘と聞いて、世間はお笑い草だと馬鹿にした。また猪木が馬鹿なことをやっていると笑った。だが、私は大まじめだったのだ。マサも真剣だった。》(アントニオ猪木自伝)
1987年10月4日、アントニオ猪木はマサ斎藤と巌流島で闘った。宮本武蔵と佐々木小次郎が慶長17年(1612)に果たし合いを行ったというあの場所である。約束の時間に大幅に遅れてきた武蔵が一撃で勝ったと伝えられる。そんな伝説的な場所で猪木はなぜ闘おうとしたのか。
この年の新日本プロレスの大きなトピックは長州軍団が新日マットに帰ってきたことだった。
前田日明率いるUWF勢もいて賑やかな構図になった。すると6月の両国大会の「猪木vsマサ斎藤」戦終了後に長州力がリングに上がり、マイクアピールで世代交代を宣言したのである。この瞬間、猪木と斎藤らに対してニューリーダー(長州、藤波、前田ら)が挑むという世代闘争にテーマは変わった。
「藤波のアイディアを猪木がパクった」という噂の真相
面白いことにこの時期は、政界ではポスト中曽根康弘をめぐって自民党の竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一の「ニューリーダー」が注目されていた(11月に竹下登が新総裁となる)。新日マットはまさに社会を反映した展開にも思えた。
フレッシュな組み合わせと世代交代という新しい時代の予感に観客はワクワクしたが、どうやら猪木は面白く思わなかったようなのである。長州らがニューリーダーなら自分は権力側(ナウリーダー)という構図になる。主役は長州らであり、自分達は守旧派で脇役となる。
そこで猪木はマサ斎藤を指名し、巌流島の決闘という突拍子もないプランをぶち上げた、という見方が多い。いや、もしかしたら猪木は世代闘争も発案したのだが、手ごたえを感じなかったのですぐに方向転換したのかもしれない。実際、8月の両国2連戦で行われた世代闘争は注目を集めたものの、意外にハネなかった。
急に提唱された巌流島の闘いだったが、実は歴史好きの藤波のアイディアだったが猪木がパクったという説があった。猪木らしいデタラメさが想像できる大好きな噂である。実際どうなのか。