ヴェネツィアにはなかったけれど、東京国際映画祭で感じたこと
――先日、映画「ほかげ」(塚本晋也監督)のみなさんで東京国際映画祭に参加されている動画を拝見しまして、レッドカーペットを歩かれているときの一連の動きが微笑ましいなと思いました。子役の塚尾桜雅さんを誘って、カメラに向かってポーズをとられて。
森山 彼と関わっているほうが気が楽ではありましたね。
――ああいう場所は苦手ですか。
森山 映画祭が苦手というわけではないんだと思います。東京国際映画祭ではなにを祝われにこの場所にきているかわからない感覚に陥ってしまう瞬間があった。報道の人たちも「レッドカーペットいかがですか」の一辺倒。レッドカーペットがいやだというよりも、この祭りという場所に映画や映画に携わった人たちが集まって、それを祝祭するためのハレの場なのに、なんのためにこの人たちはここにいて、なんのためにここに僕たちはいるのか。変な話かもしれませんが、ヴェネツィア国際映画祭でそれを感じることはなかったんですよ。
――何が違うのでしょうか。
森山 仕方がないことではあるんですが、日本では往々にして監督よりも役者が前に出ちゃうんで。映画は根本的に監督のものなんですよ。塚本さん(監督)はヴェネツィア(国際映画祭)の常連でもあり、そもそもとても愛されていることが前提としてはあるんだけれども、「なぜこの映画をつくろうと思ったのか」「なぜいまこのテーマだったのか」ということが、まず監督に問われていくんですよね。そして、映画に携わるすべての人たちが祝祭されている感覚が本当にあった。
日本は日本で面白いところがすごくたくさんあって、魅力を感じる部分がたくさんあるんだけど、けっきょく表層だけをすくって何かをつくると、こういうことになるよっていう状況に出合うと、ちょっとしんどいですね。
――表層だけというのは、何事においてもしんどいですね。
塚本晋也監督の美学と純度をリスペクトしている
森山 塚本さんの映画に関していうと、あんなにストレスのない現場はなかったです。
――どういう意味ですか。
森山 塚本晋也という人のクリエイティビティというか、美学というものが非常に強固で、ただそこにいればいいという感覚になれた。なので、なんのストレスもなかったです。
――そういう現場は珍しいのでしょうか。
森山 珍しいというか、塚本さんはかなり特殊だとやっぱり思います。塚本さんは「自分でつくる」ということを徹頭徹尾、自分に課す人だなと。提案が朧げだったり、曖昧だったり、強度として弱かったりしたら、それはそれでやりとりしながらつくっていくことになるんですけど、たとえそうであっても、塚本さんのその純度に対するこだわりに信頼が持てました。そもそも僕は塚本晋也という監督をアーティストとしてリスペクトしているから、ということも多分にあると思いますが、脚本から現場まで、不安になる要素がなにもなかった。