隅々までデジタル化した私たちの日常は、いまだにやりきれないほどの事務的な些事に満ちている。マイナンバーカードやインボイス制度をめぐる混乱をみても、事務に追われることへの人々の嫌悪、それらがもたらすディストピア感は高まるばかりだ。
近代社会は効率と功利を求めてひたすら「事務化」されてきたが、そのことは同時代の文学にどのような影響を与えてきたのか。英米文学を専門とする著者が、専門外の読者も意識して書いた文芸エッセイである本書の主題はそこにある。
夏目漱石を扱った最初の2章はいわば基礎理論編。近代の事務文化のあらわれを著者は7つの指標で分類し、そこから水際立った漱石論を展開していく。
日本の歪んだ近代化に対する最大の批判者だった漱石は、難解で知られる『文学論』からも窺えるように、「四角四面」なほど原則にこだわる人だった。そんな漱石にとって「文学」とは何だったのか。論じ尽くされたこの主題に事務という光を当てることで、新鮮な漱石像が浮かび上がる。
「形式主義」の二面性をめぐる話も面白い。この言葉はふつう役所などに顕著に見られる画一的対応を指すが、他方で「フォルマリズム」は20世紀の重要な批評理論となった。文学にとって「形式」への注視つまり事務的発想は決して無縁なものではない。両者を単なる対立ではなく、「静」と「動」の拮抗として統一的にとらえる視点が本書を貫いている。
以下の章ではスウィフトの『ガリヴァー旅行記』、ハーディの『テス』、メルヴィルの『書記バートルビー』といった英米文学の古典にくわえ、辻原登、小川洋子、今村夏子、西村賢太などの作品が「事務」をめぐる主題と方法論の両面から分析される。なかでも出色なのは辻原登の長編『寂しい丘で狩りをする』と短編「家族写真」を論じた章だ。
裁判の判決文や写真といった事務的メディアが文学作品に導入されると、「事務的感性」としか名付けようのないものが立ち上がる。文学と事務との関係は、かくも入り組んでいるのだ。
ところで本書の読者が目を留めるべきは、各章末における綿密な参考文献と注釈の提示である。なにしろ著者の家族と事務をめぐる個人史を綴った感動的な「おわりに」にまで、几帳面に記載されている。
在野の批評家が手掛ける評論やエッセイと、アカデミズムに場をもつ研究者の学術論文との違いは、後者が厳密な事務手続きを必要とするところにある。それゆえに後者は味気ないものになってしまうのだろうか。
いや、そうではない。文学における「事務」の在り処を主題とする本書は、記述のスタイル自体を事務側に引き寄せることで、そこから立ち上る「事務的感性」を提示することに成功している。これこそ事務の勝利、文学の勝利である。
あべまさひこ/1966年生まれ。東京大学教授。英文学者、文芸評論家。2013年『文学を〈凝視する〉』でサントリー学芸賞を受賞。近著に『英文学教授が教えたがる名作の英語』、翻訳に『魔法の樽 他十二篇』などがある。
なかまたあきお/1964年、東京生まれ。文筆家、編集者、大正大学教授。著書に『失われた「文学」を求めて』『極西文学論』など。