「産みたい」
妊娠12週というタイミングは、母体保護法が定める妊娠初期(12週未満)を過ぎているが、22週未満が対象の中期中絶手術は受けられる。望まない妊娠をした女性たちが中絶を選ぶことは珍しくない。坂本さんや、一緒に活動するNPOのスタッフたちは、中絶手術と子育ての両方について、メリットやリスクを説明した。そして、どちらか一方を勧めることもなく、彼女自身がどうしたいかだけを聞いた。
ユズは迷わず「産む」と言った。「中絶したら、この先、子どもを産めない体になっちゃうかもしれない」と思っていた。一般的に、中絶手術を受けることによる不妊症のリスクはないとされる。ただ、中期中絶の場合は合併症のリスクが増え、母体にかかる負担は心身ともに大きい。ユズは、いずれは子どもがほしかった。「堕ろしたくない」とも言った。
産むと決めたとき、「これで夜(の仕事)からあがれるかも」とも思った。セックスをして金を得る仕事が好きだったことはない。「慣れ」はあったし、そこまで嫌でもなかった。「でも、しんどい。やらなくていいなら、やめたかった」。出産が、これまでの生活から抜け出すきっかけになると思った。
本人のそんな気持ちを周囲は尊重した。
ユズが「ママ」と呼び、なついていた女性ボランティアがいる。渡辺美代子さん(55歳)。坂本さんが相談室を開いた直後から通い続ける社会福祉士で、いつも明るく元気な姿は、女の子たちから「お母さんみたい」と慕われていた。少年院の臨時職員を務め、捨てられた動物の保護活動に取り組んでいる。妊娠や出産に関して悩む女性たちを支援する民間団体のスタッフでもある。
渡辺さんは、「あなたがどうしたいか決めるのよ。決めたことはサポートしてあげるから」と話しかけた。「産みたい」という返事を聞くと、「それなら、子どものことを一番に考えなくちゃね」と言い、体を大事にするよう促した。
ユズは喫煙と飲酒をきっぱりやめ、ノンカフェインのお茶を飲むようになった。「タバコ、吸いたいなあ」とこぼすこともあったが、決して手を出さなかった。
坂本さんや渡辺さんは話し合い、ユズは実家に帰って出産するのが一番いいという結論に至った。来てから3年以上が経つが、東京には家族も住まいも仕事もない。聞けばユズは、両親との関係も悪くない。本人は「東京がいい。東京で産みたい」とこぼしたが、結局はその案を受け入れた。里帰り出産のため、ボランティアの女性に付き添われて実家に帰ることになった。
母親の思わぬ発言
4月上旬、実家にいるユズの母親を交えたオンライン会議が開かれた。参加したのは、坂本さんや渡辺さんを含め、彼女を支援する大人が数人とユズだ。パソコン画面に母親の顔が映り、ユズは少し居心地を悪そうにした。翌週に帰郷を控え、事前に一度は顔を合わせておきましょうと、周囲の支援者たちがユズを通じて母親に持ちかけた。
誰も知らなかった事実が語られたのは、その席上だった。