「よく似ていらっしゃるのね」「よく言われるんです」
互いに自己紹介をし、これまでの経緯を説明した。帰郷当日のスケジュールの確認に入ると、母親は何度も謝意を述べた。そして、ふと思い出したように言った。
「あの子、ちょっと知的(障害者)なんです。そのこと、(周囲の人たちに)言ってます?」
少しの間があいた。ユズが障害を明かしたことはない。渡辺さんが「あら、そうなの。聞いたことはなかったわ」と返すと、母親は続けた。
「嫌がって本人は返しちゃったんですけど、療育手帳を持っていたんです。高校も、養護学校だったんです」。障害の程度は2区分の軽い方で、ほかに持病があるとも言った。しばしの沈黙が流れた。
心の底から知られたくなかったのだろう。唐突に出た母親の言葉に、ユズはふくれた。みるみる仏頂面になり、誰が話しかけても頑なに返事を拒んだ。両手をひざの上で堅く握ったまま、浅く座った椅子の背もたれに背中を預けていた。微動だにせず、母親が映ったパソコンの画面に、見るともなく目を向けていた。ボランティアの女性が、「手帳、持たないの? 持ってると、年金も毎月もらえるんだよ?」と話しかけたが、強い口調で「いらない」とだけ答えた。
普段は自分の気持ちをはっきりとは口にせず、人から勧められると断れないユズにしては、珍しくきっぱりとした意思表示だった。
捨てようとした過去
私は、会議を傍で聞いていた。彼女が捨てようとした過去が明かされたのだと思った。ユズとのこれまでのやり取りが思い起こされた。
初めて会った2021年の冬以来、相談室で顔を合わせるたびに少しずつ話をするようになり、やがて軽口をたたくようになった。冗談や下ネタを好んで口にする明るい性格で、道に立っている時に会えば、ふざけて自動販売機の飲み物をせびることもあった。何度か食事に行き、生い立ちやその時々の暮らしぶりを聞いた。
ユズと実家の関係は、ずっと悪くなかった。数日間だったり1カ月近かったりと滞在期間はまちまちだったが、何度も実家に帰省していた。
その度に「やることがない」と、東京に戻ってきたが、「実家はご飯も出してくれるし、部屋もあるし楽だよ」と言った。母親とはしょっちゅうラインを送り合い、毎晩のようにビデオ通話をする時期もあった。両親の話をすることを嫌がらず、介護の仕事に就いたときも、「給料でお父さんに何か買ってあげようかな」と笑っていた。私は「いつか地元に帰って働くようになればいいのに」と勝手に思っていた。
でも、振り返れば、彼女が顔をほころばせるのは、実家の話をする時だけだった。家族のことを語る時のほがらかな口調は、故郷の町に話が及ぶと途端に暗くなった。誰かが勧めても、地元の町に戻って暮らすことを嫌がり、うまく説明できないのに「東京がいい」と言い張った。「地元の友達とかいないの?」と聞くと、尋ね終わる前に「いない」と答えた。それは、療育手帳の再取得について聞かれた時の返事と、よく似ていた。