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「御花畑」から町を歩く。北に延びる通りをずっと進むと…

 御花畑駅からさらに町を歩くと、これはあながち間違いではないであろうことがわかってくる。御花畑駅の脇から北に延びる「番場通り」には、大正から昭和のはじめにかけて建てられた、レトロどころかかなり年季の入った建物がいくつも並んでいる。いまも昔のままに営業しているところもあれば、見た目そのままに中身を変えているところもある。観光客の姿も多く、このあたりが秩父の中心なのだろう。

 

 番場通りをずっと進むと、奥に鳥居が見えてくる。秩父神社という秩父の守り神で、秩父夜祭も秩父神社の例祭だ。秩父神社の西側を通っているのは旧秩父往還だ。秩父往還は熊谷から秩父を経て甲府へと向かうというなかなか壮大な街道で、いまはもっと東側の国道140号に受け継がれている。

 いまも秩父の町中においては旧道の秩父往還の面影が色濃く残されている。古い町家も目立つし、南の方には地場の百貨店・矢尾百貨店も見える。この百貨店、なんと江戸時代中ごろに酒造業を興したのがルーツという老舗中の老舗だ。関東地方の西の端、山の中の盆地にある秩父の町が、いかに昔から栄えていたのかを教えてくれる。

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銅に絹、セメント産業に観光…日本を動かした「秩父」の産業

 ヤマトタケルと武甲山の話を持ち出すまでもなく、秩父の歴史は実に古い。8世紀はじめには、秩父で産出された和銅をもとに和同開珎(貨幣)が造られたという。中世には桓武平氏の一族・秩父氏が興り、武蔵国の武士を統率するほどの勢力をほこっていた。去年の大河ドラマで中川大志が演じた畠山重忠も、秩父氏の一族だ。江戸時代には絹の生産が盛んになり、幕府や忍藩の保護によって物資の集積地にもなって賑わっている。

 明治時代、自由民権運動の影響下で秩父の農民や士族が武装蜂起する「秩父事件」が起きたのも、長い歴史の中で築いてきた秩父の豊かさの裏返しといっていいかもしれない。

 絹の生産は明治以降下火になったが、代わって武甲山の石灰石とセメント産業がやってきて、最近になってからは観光も加わった。山奥がゆえに空襲などの被害を受けることもなく、戦前期からの建物も多く残っている。それが古くさい……ではなく、レトロな町並みとして注目されたりするのだから、世の中はわからないものだ。