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対局した際に“香落ち”で敗北

 だが、奨励会入りしてから羽生さんとの力の差は大きくなっていった。

 私がなかなか昇級、昇段できない間に羽生さんは順調にプロへの階段を上っていた。入会から1年後、私が4級のとき、羽生さんはすでに1級だった。私が初段の頃、三段に上がっていた羽生さんと対局した際には、“香落ち”で負けた。そして、私がまだ初段でいる中学生のうちに、羽生さんは四段=プロ棋士としてデビューを果たす。

 羽生さんの活躍に悔しい気持ちや焦りもあったが、それよりも寂しい気持ちのほうが大きかったかもしれない。仲間として楽しく将棋談議をしていた羽生さんが、自分から、ずいぶん遠い場所へ行ってしまったような気がしたのだ。

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“島研”で一日2局の対局をこなす

 私はそんな羽生さんの背中をずっと追いかけてきた。三段時代には、島朗さんが主宰する研究会が佐藤康光さんと私と3人で始まり、私がプロになってからは、そこに羽生さんを加えた4人で腕を磨いた。後に伝説的に語られる通称“島研”での研究の日々は、私の棋力を大きく引き上げてくれた。今でも私にとって大きな財産だ。島研の定例会では、参加者4人で代わる代わる一日2局の対局をこなしていくのだが、羽生さんの勝率は圧倒的だった。

 島さん、佐藤さん、羽生さん、私が公式戦でぶつかることが多くなってきたタイミングで、島研は活動終了となるのだが、その記念にと4人で温泉旅行へ行った。温泉に浸かって、美味しい食事を食べた後は、4人で夜遅くまでカードゲームに興じた。大の大人が4人も集まって小学生の修学旅行のような夜を過ごしたのだが、それぞれが楽しんだのではないだろうか。

タイトル戦で棋力の差を痛感

 そして1996年の名人戦。私は10代からタイトル保持者として活躍していた羽生名人と、初めてタイトル戦で対局することになった。それは私にとって初めてのタイトル挑戦でもあった。

 小学生の頃から、奨励会、島研、公式戦……と数えきれないほど対局を続けてきた羽生さんとついにタイトル戦という檜舞台――それも最も歴史のある名人戦という大舞台で戦うことになった。羽生さんとタイトル戦で戦うことは、子どもの頃からの私の夢でもあったが、それが叶ったのだ。

数々の名勝負を繰り広げてきた羽生善治九段と森内俊之九段 ©文藝春秋

 だが、その年、羽生さんは七冠独占を達成したばかり。羽生さんの凄みと棋力に圧倒され、1勝するのがやっとのまま七番勝負を終えた。羽生さんとタイトル戦で戦うことはできたが、棋力の差を痛感させられた。

 そして、その後も、2000年の棋王戦五番勝負で羽生さんに挑戦したが勝つことはできず、2002年に初タイトルとなる名人位を獲得したものの翌2003年の防衛戦で挑戦者となった羽生さんに敗れ名人位を明け渡すなど、羽生さんとの差を縮めることができずにいた。