14歳2か月での史上最年少プロデビュー後、29連勝、最年少タイトル、最年少名人位獲得、さらには前人未到の八冠独占......次々と将棋界の記録と常識を塗り替えていく藤井聡太竜王・名人。
そんな“令和の覇者”の「圧倒的強さ」「真理に迫る一手」の秘密を、羽生世代のレジェンド棋士・森内俊之九段が鋭く深い視点で読み解く。『超進化論 藤井聡太 将棋AI時代の「最強」とは何か』(飛鳥新社)から一部を抜粋してお届けする。
森内が見た「羽生善治」
羽生さんと私は、プロ棋士の養成機関である奨励会に入る前――小学生の頃からずっと将棋を指してきた。あるときは真剣勝負の対戦相手として、あるときは研究仲間として、40年以上も将棋盤を挟んで向き合ってきた。
同学年である羽生さんと初めて出会ったのは、小学4年生の頃だ。将棋を始めて1年ほど経つと、私はデパートなどで開催されていた子ども将棋大会に参加するようになっていた。その年の正月、東京・新宿のデパートで行われた将棋大会の予選。対局することになった広島東洋カープの帽子を被った小柄な少年、それが羽生さんだった。
当時、私はアマチュア初段。参加者の段位や級数が書かれている羽生さんの“対戦カード”に目をやると“4”という数字が目に入った。私はそれをてっきり「4級」だとばかり思っていたのだが、実際に対局を始めてみると、すぐに4級のそれではないことに気づいた。とんでもない強さで、かなりの実力差を感じた。羽生さんはそのときすでに“四段”だったのだ。
その対局は、終始押されていたものの運よく終盤で逆転。なんとか私が勝ったのだが、心の中では、「次は厳しいかもしれないな」と感じていた。
後日行われた決勝トーナメントで再戦したときには、チャンスを作れず完敗した。それ以来、私は羽生さんを将棋大会に行くと探すようになった。お互い同学年の子どもだ。すぐに打ち解けて、会えば対局するだけでなく、話もするようになった。だが、会話の中身はいつも将棋の話ばかりだった。
小学6年生で入会した奨励会でも、羽生さんは同期だ。同期は17人いたが、年上ばかりで小学生は羽生さんと私、そして郷田真隆さんだけ。
そんな環境で羽生さんは気楽に話し合える仲間だった。奨励会の定例会が終わると他の同期も交えて羽生さんとファミリーレストランに入って食事をすることもあり、それが楽しみでもあった。