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内閣情報調査室の下請けの仕事、IT系ベンチャー企業社長の秘書の仕事も…65歳の“ギフテッド”の身に迫る危険とは

著者は語る 『負けくらべ』(志水辰夫 著)

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『負けくらべ』(志水辰夫 著)小学館

「せっかく書くなら、これまで書いたことがない話を書きたい。常にそう思っています。それで、本作を書き始めた2年前にはその存在が今ほど知られていなかった“ギフテッド”を主人公に据えました。年齢は、これまで書いた中では最年長の“65歳”に。そして、より今日的な職業として“介護士”としたんです」

 このたび、作家生活42年、来月87歳を迎える志水辰夫さんが上梓した新作『負けくらべ』。しばらく時代小説を中心に執筆してきた志水さんにとって、19年ぶりの現代長編だ。

 くだんの主人公・三谷孝は、50年携わってきた介護サービスの会社の経営を娘夫婦に任せ、今は個人で高齢者の介護を請け負っている。クライアントは訳ありで手強い人物ばかりだが、ずば抜けた対人関係能力、調整力、空間認識力、記憶力を持った三谷には、誰もが不思議と心を開いてしまう。一方、その特異な能力をかわれ、内閣情報調査室の下請けとして頼まれるややキナ臭い仕事にも、時々、協力をしていた。

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 そんななか出会ったのが、IT系ベンチャー企業社長の大河内牟禮(むれ)だ。彼は、戦後、政財界にもその名を轟かせたフィクサーで上場企業6社を擁する大グループの創設者・大河内東生(とうせい)の末っ子だという。しかし、その出自から一族に対して強い屈託を抱えていた。

「三谷は、私にとっての理想です。穏やかで、辛抱強くて、どこまでも人に寄り添える強さがある。一方、常に自分の荒んだ心と闘っている牟禮は、真逆の人格。誤解を恐れずに言えば、彼は、私たち世代にはよくいるタイプの、自分のことしか考えていない、身勝手な男性の典型です。今回描きたかったのは、こういう人間を生み出した、かつての日本社会のありよう、または残滓です。これは私のような、あの時代の空気をかろうじて知っている者にしか書けない話。だから書いておきたかったし、その責任が自分にはあるような気がしたんです」

 一族の軛(くびき)から逃れようともがく牟禮の前に厳然と立ちはだかるのが、東生の妻で牟禮の戸籍上の母、92歳の尾上鈴子である。登場シーンは少ないながら、志水さんが、最も力を入れて書いた人物だという。

「鈴子は時代に、いや、途方もなくデタラメだった当時の男たちに翻弄された徒花です。自分を虐げてきた夫の死後、絶対的な母親として権力を振るう。その意地と悲しさ。あの時代のすべての母親たちに通じるものではないでしょうか」

 最先端研究をめぐるIT企業の買収問題、戦前から続くかの国との暗い関係、一族の確執。牟禮の秘書として働くことになった三谷の身にも危険が迫り――。

志水辰夫さん

「ハードボイルドを書いたつもりはないんですが、読者の方からは、『またシミタツのハードボイルドが読めてうれしい』という声をいただきます(笑)。でも、お届けするまでに時間がかかりました。『これじゃあ今の読者には伝わらない』と、編集者に何度もダメ出しされましてね。大きく言えば7回、細かく言うともっと何回も書き直しました」

 意外な告白に、その真意を尋ねると……。

「やっぱり読んでいただくのは今の読者なので。そのためにできることは、いつだって精一杯やりますよ。それに、本作の執筆を通して、この歳でやっと目が開かれたという経験も。80代になって見えてくる世界があるんだなあと、つくづく実感しています。ですから、これからも、私なりのやり方で、今の時代に参加する作品を書き続けていきたいと思っています」

しみずたつお/1936年高知県生まれ。81年『飢えて狼』でデビュー。86年『背いて故郷』で日本推理作家協会賞長編部門、90年『行きずりの街』で日本冒険小説協会大賞、2001年『きのうの空』で柴田錬三郎賞を受賞。著書多数。

負けくらべ

負けくらべ

志水 辰夫

小学館

2023年10月3日 発売

内閣情報調査室の下請けの仕事、IT系ベンチャー企業社長の秘書の仕事も…65歳の“ギフテッド”の身に迫る危険とは

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