京都の小規模病院に勤める内科医雄町(おまち)哲郎、“マチ先生”は、様々な患者と日々向き合う。末期の癌を患う女性を往診し、アルコール依存症で、大量吐血で救急搬送された男性に内視鏡手術を施す。そして、静かに彼らに寄り添う。がんばらなくても良いのです。ただ、あまり急いでもいけません――。
「医師として20年、たくさんの命を看取ってきました。人の命のあり方、向き合い方に、私が気づいたことを書きました」と、現役の医師であり、新作小説『スピノザの診察室』を上梓した夏川草介さんは話す。
「治らない病気などないと信じるからこそ、医学は進歩してきたわけですが、現場ではどうにもならないことが山ほどあります。医者であれ患者であれ、誰かの努力が足りないわけではない。最先端医療も地域医療も関係なく、人の命に対して、人にできることには限界があるという認識を常に持つようにしています」
それは、あらゆる医療の現場に付きまとう問題だ。食事を摂れない患者にどこまで点滴をするか。認知症の患者に癌が見つかったら、切除すべきか、見守るべきか。答えは単純ではない。大学病院の医局から研修にきた南茉莉には、治療に消極的に見える哲郎の姿勢が理解できない。急変した患者を前に、〈このまま看取るというお考えではありませんよね〉と哲郎をなじる。
「マチ先生と南の葛藤は自分が通ってきたことなんです。私も研修医の頃は、治すことに全力を尽くしたくて、時間が解決してくれる病気もあるよと言う指導医に反発していましたが、実際、最善と思った治療がうまくいかず、何もしない方が元気になる場合もあるんです。治療だけでは足りないと思うようになって、往診や在宅医療、看取りに目を向けるようになりました」
幸せに人生を送るとはどういうことか、マチ先生は問いかけ続ける。〈病気が治ることが幸福だという考え方では、どうしても行き詰まることがある。つまり病気が治らない人はみんな不幸なままなのかとね〉
「医者が治療に必死になるうちに、いつの間にか患者さんが苦しんでいることを見逃してしまうことがある。逆に、より良く看取ろうと思っていても、患者さんはまだ頑張りたいと思っていることもある。治療とか看取りとかに線を引かずに、この人が笑顔で過ごすにはどうしたらよいのかを考えています」
夏川さんは、ベストセラーとなった『神様のカルテ』シリーズなど、自らの経験に基づき、医療の現場や医者の姿を描いてきたが、「医療小説を書いている感覚はそれほどない」という。
「常に心掛けているのは、人間の美しい面を伝えることです。世の中には、暴力や悪意、過激なもの、人間の闇を暴露するような作品が溢れています。それを否定するのではありませんが、精神分析学者のエーリッヒ・フロムは、人は闇にばかり触れていると際限なく堕ちていくと述べています。若いうちに美しいもの、正しいこと、善の基準になるものに触れておかないと、闇に飲まれて人を傷つけるような大人になってしまう、と。現場には闇が溢れていて、私自身、激高した患者さんに“人殺し”と言われたこともあります。一方で、重病で辛いはずなのに、『先生休んでくださいね』と気遣ってくださる方や、『自分のような人生を終えようとしている人間が使うものではない』と生活保護を辞退される方に出会うと、心を打たれる思いでした。夢物語と言われても、そんな美しい景色を描いていきたいと思います」
なつかわそうすけ/1978年大阪府生まれ。信州大学医学部卒業。長野県で地域医療に従事。2009年『神様のカルテ』で小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。著書に、『本を守ろうとする猫の話』『始まりの木』『臨床の砦』『レッドゾーン』など。