〈卵子の中に、吸い取った精子が入ったガラス管を慎重に刺し込む。卵子を覆う透明帯を突き破り、中の細胞質と呼ばれる部分に精子をゆっくり、置いてくる〉
4組に1組の夫婦が不妊治療をし、14人に1人が体外受精で生まれてくる現在。冒頭の引用は、体外受精の1つ、顕微授精に、本作の主人公・長谷川幸が臨んでいる場面だ。彼女の仕事は、卵子と精子を受精させ、培養などの生殖補助業務を行う“胚培養士”だ。
「読んでくださる方の立場によって、いただく感想もいろいろで。『自分は自然に授かったけれど、それがどれだけ奇跡的なことだかわかった』という方や、実際に不妊治療をされていて『気持ちが軽くなった』と言ってくださる方もいました。初めて胚培養士という仕事を知った方から『お仕事小説としてすごく面白かった!』との声もいただけて、ありがたかったです」
そう語るのは、このたび『受精卵ワールド』を上梓した本山聖子さんだ。2020年、乳がんと診断された3人の若い女性の姿を描いたデビュー作『おっぱいエール』で注目される。2作目となる本作では、生殖医療の世界、そこに関わる人の人生を丁寧に描いた。
本山さん自身も、20代で乳がんを患い、長年にわたる不妊治療を経験した。
「子供のいるいないにかかわらず、その人にとっての幸せの形って、本当にそれぞれだと思っていて。卵子と精子が受精して、順調に育ち、1つの命の誕生に至るまでにはいくつもの関門があります。自分が子供を産むことより、まず自分自身が生まれてきたことが奇跡なんです。その過程をつぶさに見つめている胚培養士さんの目線から、そのことを描きたかったんです」
幸が胚培養士として働く東京の不妊治療専門のクリニックには、さまざまな人が訪れる。夫もあまり協力的ではなく、なかなか結果が出ないことに悩む妻や、晩婚で、40、50代ではあるけど、どうしても子供が欲しいと望む夫婦など、それぞれの事情がある。
「不妊治療中って、自分自身も、夫婦としても、いろいろなことを考えます。その時間が、ただ苦しくて辛いだけのものであったら、やっぱり悔しい。大変なことはたくさんあるけど、同時に楽しいことや嬉しいことも起こるのが人生ですよね。この小説も、暗いものとして世に出したくなかったんです。その人が、その人なりの幸せを見つけるまでのことを、すこしでも描けたらと思っていました」
日々、顕微鏡を覗きながら、受精卵と向き合う幸。そんな幸自身も、出自に葛藤があった。父ではない第三者の精子提供による人工授精(AID)で生まれた子供だったのだ。その事実がうまく受け入れられず、長崎の家族ともぎくしゃくしている。そんななか、新しく赴任してきた医師の花岡幸太郎に、幸は不思議な懐かしさを感じる。親子ほどの歳の差の2人だが、聞けば同じ九州出身で――。
幸の出自の秘密も本作の読みどころであり、大事なテーマになっている。巧みな構成にぐいぐいと引き込まれるが、なによりもその筆致は細やかで、誠実だ。
「これまでは自分の経験をもとに書いてきたところがあったのですが、それもいつか限界がくるはずで。私の一番の目標は、細く長くでもいいので、10年後にも『あ、本山聖子って聞いたことある』と何人かの人に言ってもらえるような作家になることです。世の中で必要とされているものや、訴えかけていく意味のあるものを、自分の言葉で、物語として、届けていけたらいいなと思っています」
もとやませいこ/1980年、鹿児島県生まれ、長崎県育ち。東京女子大学卒業後、児童書・雑誌の編集に従事。27歳のときに患った乳がんの闘病を機にフリーランスに転向。2017年「ユズとレモン、だけどライム」で小説宝石新人賞を受賞。2020年『おっぱいエール』でデビュー。