彼が本屋稼業をスタートさせるのは安永2年(1773)、23歳のこと。吉原大門近くの親戚の店先を借り、小さな本屋をオープンさせた。メイン商品は「吉原細見」、遊郭ごとの遊女の名前や費用をメインに編纂されたガイドマップだ。正月と夏の2回発行されるほか、たびたび改訂版が出る売れ行きのいい摺り物だった。
細見はいいビジネスになったはずだが蔦重は満足しない。
彼は持ち前の向上心を発揮する。いや、これは野心というべきだ。というのも、その後の蔦重の速攻ぶりがあまりに鮮やかだから。
当時、細見は老舗で大手の本屋、鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)が編集から出版までを一手に握っていた。蔦重は「細見改め」という取材スタッフに名乗りをあげる。
吉原細見にとって遊女リストの充実こそが生命線。信頼のおける最新、詳細なデータを掲載できるかどうかが評価に直結する。それだけに「改め」は誰もが気軽にこなせる仕事ではない。しかし遊里は蔦重の故郷、親戚だっている。彼はそのコネクションを活かした。遊郭側にすれば、蔦重が取材に現れたらムゲには断りにくい。このアドバンテージは鱗形屋も一目置いたことだろう。
果たして、蔦重は「改め」の重責をみごとにやり遂げてみせた。
大河の主人公なのに“悪辣”な蔦重、どう表現するか
細見にかかわってわずか3年、26歳の蔦重はさらにステップアップする。
何と、今度は吉原細見の版元に収まってしまった。その背景には、細見を牛耳っていた鱗形屋の不祥事がある。この安永5年、鱗形屋は上方の版元の本を無断で出版、それが大問題に発展して細見どころではなくなっていた。
蔦重は抜け目なく主家の失態を衝き、驚くほど素早く動く。ボスだった鱗形屋は「飼い犬に手を噛まれた」と激怒しただろう。ところが家中はてんやわんや、蔦重に鉄槌を下す余裕なんぞなかった。
機をみるに敏といえば体裁はいい。だが、裏を返せば恩義を打ち捨てたクーデター。大河ドラマが“悪辣”な蔦重をどう活写するか、見ものではある。
特筆すべきは、蔦重の出した吉原細見が鱗形屋版を凌駕したことだ。
まずサイズを大きく、見やすくした。判型拡大で1ページに入る要素が増え、結果としてページ数を減らし費用を抑えることができた。蔦重はその成果を値下げという形にも反映させた。
たちまちにして蔦重版吉原細見はマーケットを席巻したのだった。
この発想、この早手回しぶり! おそらく販売を手掛けた当初から細見改編を企図しチャンスを窺っていたに違いない。
それでも、耕書堂はちっぽけな本屋でしかない。鱗形屋は歯噛みしただろうが、他の並み居る大手の本屋は歯牙にもかけていない。
「ふ~ん、吉原の蔦重って若いのが細見でいい商売をしたって? へえ~、そうなのかい」
彼らは余裕綽々だった。少なくとも、この時点までは。