馬政権が対中融和政策をとったことは、国際社会における台湾の活動空間を拡大させる成果ももたらした。共産党政権は台湾の政府が国際社会において正式な国家の代表として振る舞うことを認めない。しかし、馬政権が共産党政権から譲歩を引き出したことで、台湾の代表は09年から16年にかけ、「中華台北(Chinese Taipei)」の名義でWHOの年次総会(WHA)にオブザーバー参加することができた。また、13年には、民間の窓口機関を通じて日本との間で漁業協定を締結している。
パンダ受け入れをめぐるグレーな解決
文化イベントに注目すると、馬英九政権の成立を象徴したのが「パンダ受け入れ」であった。05年の連戦国民党主席の大陸中国訪問に際して、共産党政権は台湾へのパンダ贈呈を提案していた。しかし、当時の陳水扁政権は飼育環境の未整備を理由に受け入れの許可を出さなかった。これに対し、馬英九政権は成立早々にパンダ受け入れを許可し、08年12月に台北市立動物園がパンダのペアの飼育を開始するにいたった。二頭の名前は、「離れ離れになっている家族の再会」を意味する「団円」という表現にちなみ、「団団」と「円円」と命名されていた。
パンダは1980年代以来、ワシントン条約で国際商取引が禁止されていた。共産党政権の立場としては、台湾は人民共和国の「国内」であるため、このパンダ贈呈は国際法の適用外ということになる。そのため、馬英九政権がすんなりパンダを受け取ってしまうと、「台湾は人民共和国の一部である」と認めてしまうことになり、それは民進党政権から批判の対象とされるだけでなく、台湾は「中華民国の一部」だと考える国民党寄りの思想の持ち主に対しても説明がつかなくなるという問題があった。
そこで、このパンダ授受にあたっては、大陸側はワシントン条約の定める輸出許可証明書に似た形式の書類を発行し、台湾側はそれをワシントン条約の定める証明書の代わりと見なす措置をとることで、馬英九政権に「人民共和国の国内交易ではない」と主張する余地が与えられることになった。大陸側からと台湾側からでは見え方が異なる、グレーな解決が図られ、共産党政権もそれに協力したのである。実はこの方式は、陳水扁政権期の2002年から、ワシントン条約に抵触する漢方薬の原料を台湾に輸入する際に採用されてきたものでもあった。大陸中国と台湾の双方の政府は、深刻な政治的摩擦を抱える一方で、政治問題によって経済活動が妨げられないようにするための工夫も積み重ねていたのである(家永真幸『国宝の政治史』)。