台湾人アイデンティティへの配慮
馬政権の対中融和政策は、当初は一定の支持を得ていた。そのため、12年の選挙で馬は民進党の蔡英文候補を破り、再選を果たす。しかし、台湾社会では次第に、経済の対中依存の高まりや、共産党が文化面で台湾へ浸透していくことへの警戒が高まっていった(川上桃子、呉介民編『中国ファクターの政治社会学』)。とりわけ、13年に医療、金融、印刷、出版などのサービス業の自由化を規定する「海峡両岸サービス貿易協定」が調印されると、台湾世論は馬政権の対中政策形成過程の不透明さに強く反発した。14年3月、台湾の学生たちはこの協定が承認されるのを阻むため立法院に突入し、一か月近くにわたり議場を占拠した。この一連の抗議活動は「ひまわり学生運動」と呼ばれる。
この運動の発生前から、2期目の馬英九政権の支持率は低迷を続けており、国民党は16年の総統選挙で再び政権を民進党に譲り渡すことになる。また、ひまわり学生運動後、台湾社会では国民党に対する反発だけでなく、政治全般への不信が高まった。そのため、一四年の台北市長選挙では国民党とも民進党とも距離をとる無所属の柯文哲が一大旋風を起こして当選した。柯はその後、19年に台湾民衆党を結成し、台北市長を2期8年間務めた後、24年の総統選挙に出馬することになる。
15年11月、馬はシンガポールのシャングリラホテルにて、共産党の習近平総書記と会談をおこなった。これは四九年の分断後初となる、台湾海峡両岸の指導者同士の歴史的な会談であった。ただし、この会談の実務的な意義は薄かった。また、会談で馬と習は「中華民国総統」「中華人民共和国主席」という正式な役職名を使わず、「馬英九さん」「習近平さん」と呼び合い、互いの関係性をあいまいに処理した。習がなぜ、支持率が低迷し、任期切れも近い馬にわざわざ会ったのかについては、不明点も多い。一説には、16年の選挙で民進党政権が成立すれば、台湾海峡両岸の指導者同士による会談の機会が失われるとの判断があったためともされる(竹内孝之「顕在化する米中覇権争いと中台関係」)。
馬政権が一貫した対中融和政策をとり、国民党は共産党から経済的な利益を供与され、共産党の代理人かのように振る舞ったことで、台湾政治における共産党の影響力が強まったことは否定できない。ただし、馬政権は、内政においては台湾の有権者の「台湾人」としてのアイデンティティにも配慮を示していたことも無視できない。